ロジックとエビデンスの向こう側。 with Chat GPT

先週のメルマガで「身体性」の話を書いて、AIとの対比の中で私たちにとって大切なこと、なんてことをツラツラと考えました。せっかくだから久方ぶりにAIと一緒に共作で文章を書いてみようと思った次第です。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2024.09.24
誰でも

先週のメルマガで「身体性」の話を書いて、AIとの対比の中で私たちにとって大切なこと、なんてことをツラツラと考えました。せっかくだから久方ぶりにAIと一緒に共作で文章を書いてみようと思った次第です。

1年ほど前、当時のChat GPTとのコラボでメルマガ文章を書きました(当時はGPT4)。約1年たって、現在のGPT4oとの対話で文章を作りました。当時のアウトプットは正直、あまり面白くなかったのだけど、1年経って進化したGPTさんとはどんな文章を作れるかしらん?と対話をはじめました。

まずは私の過去のメルマガを読んでいただきまして、過去の傾向から見られる未来の記事のタイトル、というのをつくってもらいました↓

「未来への道は遊びから始まる」
「大人も子どもも同じ空を見上げて」
「心の冒険、無理しない挑戦」
「自然と対話する時間の贅沢」
「日常の中で見つける非日常の喜び」
「失敗を楽しむ、そこから学ぶ」
「体を動かすことが心の声を聞く鍵」

いいセン行ってる気がするけど、下に行けば行くほど直球になっていて雑な印象。この中からどうとでもとれそうなタイトル「大人も子どもも同じ空を見上げて」をピックアップして文章を書きました。第1段落をAI、第2段落を私、第3段落をAI、という感じで交互にコラボレーションしながら筆を執りつつ。

以下、ご賞味ください(太字がGPTさん)

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大人も子どもも同じ空を見上げて

最近、ふと空を見上げる時間が増えました。大人になると、地上の忙しさに追われて、つい空を忘れてしまいがちです。でも、子どもたちは違います。彼らは自然に空を見上げ、雲の形を追いかけ、飛行機や鳥を眺める。その姿に触れるたび、私たちも同じように空を見つめることの大切さを思い出すのです。大人も子どもも、同じ空を見て、同じように心が自由になれるのだと。

と、思ったけど…。実は僕ら大人だって空を見上げているのだと思う。それをうまく記憶していないだけ。忘れてしまうだけ。そういえば昨日も散歩の途中で空を見上げた。何気ない夕暮れ、なんてことない空。でも心に残っている。「大切さを思い出す」というけれど「大切かどうか」以前の体験なのかもしれない、という気もする。

そんなふうにして、大人は空を見上げることがある。けれど、僕たちはその瞬間を深く味わうことが少なくなってしまったのかもしれない。子どもの頃は、空を見上げる度に新しい発見があった。雲の形、鳥の飛び方、そして風の動きまで、すべてが小さな冒険だった。今、大人になった僕らも、時々はその感覚を取り戻して、空をただ感じるだけで心が少し軽くなる瞬間を楽しむべきだと思う。

「楽しむべき」という言葉を使ってしまった…。「べき」。私たちはすぐこの「べき」という言葉を使うんだよね。「べき」から自由になりたい。そんな風に自分を促すのでなく、自然に感じるままにありたい。子どもの頃は小さな冒険だった、と書いたけどそれもはたして事実かな?子どもはそんなに自由で軽やかなものなのかな?それこそ、幻想な気がする。大人も、子どもも「べき」に囚われがちなのが私たち人間なのかもしれない。

でも、「べき」から逃れることはできるのかな?実は、私たちが感じている「自由」さえも、どこかで社会のルールや期待に縛られているのかもしれない。大人になると特にそう感じる瞬間が増える。それでも、その中でほんの少しでも自分自身を解放できる瞬間を見つけることができたなら、それが本当の自由なのかもしれない。空を見上げるように、ただ「今」を感じる時間を大切にしたい。

そう「べき」に縛られる私たちもまた自然なあり方。自然な存在。「社会のルールや期待」に息苦しさを感じるときがあるのも、これまた私たちの自然なあり方なのだと思う。願わくばそんな矛盾に満ちた自分を抱きしめたい。そしてそう、ただ空を見上げ感じる時間を大切にしたい。「べき」に縛られる自分が居ながらも、自分の内側から沸き起こる願いや思いを大切にしたいなぁ。

私たちが「べき」から自由になる瞬間は、決して完全な解放を意味するわけではないかもしれない。でも、その束縛の中で自分の心がふと感じる何か、風や光に触れた瞬間の喜びこそが、私たちが本当に大切にすべきものなのかもしれない。完璧ではないけれど、そうした小さな瞬間が積み重なって、やがて自分自身との折り合いをつけ、少しでも心が軽くなる生き方を見つけていけるのだと思う。
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なんだか、進化が著しいですね。前回はすごく表層的な「正しさ」に支配された文書になってしまった気がするのだけど、今回はすこし深い思索にたどり着いた気がする。そしてGPTさんの文章は流ちょうでストレート。ワタクシの文章はひねくれて、なんだか重箱の隅をつついている感じ(共作なのに)。

GPTさんが自然に使う「〇〇すべき」という表現が引っかかってしまって、そこに絡んでいったのですが…。彼(彼女?)の明確な世界観「社会的な動物である人間は『べき』から完全に自由になることはできない。」が見えてきました。そしてなるほど、たしかに、と思うのであります。(GPTさんは私の文章を読み込んでいるので、もしかして私自身がそう考えていてそれを表現してくれた可能性もありますが…)

改めてGPTさんに2つの問いを投げてみました。

問1 人間は「べき」から自由になることは困難なのか
問2 小さな自由の積み重ねでしか「心の解放」にたどり着けないのか

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問1「べき」からの自由は困難か?

GPT:人間は社会的動物であり、常に他者との関係の中で生きています。よって、社会的な期待やルール、「べき」に完全に縛られずに生きることは難しいでしょう。社会は人々に一定の役割や責任を求めますし、自分自身の内面にも「こうあるべきだ」という考えが根強くあります。しかし、それに気づき、意識的に距離を置くことは可能だと考えます。

問2 小さな自由の積み重ねでしか心の解放に至れないか?

GPT:心の解放が一度に大きく訪れることもあるかもしれませんが、日常の中で小さな瞬間の自由や喜びを感じることが、最終的に心の軽さや平和につながると思います。大きな解放が訪れなくても、日々の小さな自由が積み重なることで、精神的な負担が軽減され、より自然体で生きられるようになるのではないでしょうか。
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どちらの解も妙に納得してしまいました。そうだよな…、と。GPTさんが一瞬で華麗に導き出したのは「最適解」。今回のような粗いやりとりでもさっと最適な回答にたどり着けるのはやはりすごいし、彼らは今後、どんどん進化していくように改めて思いました。

「べき」は過去の経験の積み重ね(エビデンス)と、論理的帰結(ロジック)として抽出される最適解に使われるのだと思います。普通に考えを積み上げていったらこうなるよね、と。それも大事なことだと思う。でもその積み上げはAIが華麗にやってくれるらしい(実に、1年前よりもはるかに上手になっている)。

だからこそ、人間のフロンティアは「揺らぎ」であり、「矛盾」であり、「信じること」であり、「妄想」であり、「痛み」であり、「逃避」であり…。「最適」とはかけ離れたそういう余計な回り道の中にこそ、ある気がします。

感じること、表現すること。そのときに「正解」を外れることを厭わないこと。手間が買って余計な回り道を通ることに躊躇しないこと。That’s 人間!

なんてことを考えていたら、私のyoutubeに面白い動画が流れてきたのでシェア↓
泥酔した三上編集長が暴走!?世界が隠していた真実をついに言及してしまいました…!

「月刊ム―」(←まだあったんだ!)の編集長がアレコレ語る30分なのですが、これが滅法、面白い。最近の都市伝説はロマンがなくなった。すぐにソースは?エビデンスは?という話になってしまってつまらない、という話からはじまりまして。

最後は「ムー大陸」の話になりました。ムー大陸を提唱した人(100年前のヨーロッパの人)の背後には日本の軍部があって「ムー大陸」のムーは「無」だと。無大陸、だから無い。だけど有るんだよ、と三上編集長は語っています。とっ散らかりすぎて何が本当だか何を信じていいのかよくわからない感じ。そしてそのままでいい感じ。非常に人間的だなぁ、クリエイティブだなぁ、と思った次第です。

GPTの兄弟生成AI DALL-Eが今回の文章を読んで作ってくれたメインビジュアル。

GPTの兄弟生成AI DALL-Eが今回の文章を読んで作ってくれたメインビジュアル。

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