正直であろうとすること>個体としての一貫性。

最近、ちょっと固い文章が続いていた気がするので、気分を変えて思いつくままに書きなぐった文章をポンと投げてみることにしました。着地点を定めずに、ほぼほぼ一筆書きで書いたままに。あまりに伝わりづらいなと思うところだけ、あとから少しだけいじっています。正直さと一貫性について。
塚越暁 2025.06.10
誰でも

最近、ちょっと固い文章が続いていた気がするので、気分を変えて思いつくままに書きなぐった文章をポンと投げてみることにしました。着地点を定めずに、ほぼほぼ一筆書きで書いたままに。あまりに伝わりづらいなと思うところだけ、あとから少しだけいじっています。正直さと一貫性について。

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面白さって何なんだろうな。どこに宿るのだろうな。最近思うのは家族の中での他愛もない会話が宝物だな、ということ。しょうもない話題、記憶に残らない話題。どこにもたどり着かない、何の役にも立たない言葉遊び。ノリとリズムで繰り出されたやりとり。そういう時間が一番の宝物だと思う。

何のために生きているのか。

それはちょっとよくわからない。よくわからないけど、目の前にある喜び、ワクワク、悲しさ、いら立ち、そういうのをひとつひとつ大切にしていきたいと思う。

皆まで申すな。

あれもこれも説明的になってしまうことの残念さよ。受け取りがズレることの面白さ。意図通りに伝わらないことの可笑しさ。ちょっとしたズレ、ちょっとした不便さ、ちょっとした誤解。そういうのをのんびり楽しめる自分でありたい。

恵比寿で開かれていた野村浩平さん(のむさん)の個展に行った。お会いしたのは久しぶりなのだど、真ん中に戻っていける感じがした。自分の中の矛盾をそのままに出した、とのむさんは言ってた。矛盾を否定していた自分、矛盾を受け入れた自分。

絵を描くときにはテーマがあったりなかったり。あってもなくても筆が赴くままに動かして、それで終わったと思った時が完成。そういうあり方がいいなぁと思う。うらやましいなぁ、と思う。のむさんの中にも受け取り手を思うホスピタリティやサービス精神があって。そういう他者のつながり的なもの、懸け橋。そういうのを大切にしつつも、描くときは全部脇においておいて、自分の内側から出てくるものそのものの純度ままにモノを作るというあり方。憧れるな。

そこにあるのはたぶん、正直さ。正直であろうとすること>ひとつの個体としての一貫性

どうしても説明をしようとすると「一貫性」みたいなものに縛られがちだと思うのだけど、それは脇に置いておいて、一貫しないということも含めて、揺らぐことも含めて、飽きてしまったり嫌になってしまったり、突然好きになってしまうことも含めて自分自身に対して極力、正直であろうとするその姿が清らかで、気持ちがいいのだと思う。

そんな風にありたいものです。

論理的に一貫していること、ポジティブで前向きで優しくて理解力に溢れることはきっとAIがやってくれる。素敵な寄り添いも、もやもやした感覚を言語化することも、躊躇する自分を後押ししてくれることも。

だからなんか、イラっとする関係や、理解してもらえない悲しさや、うまくいかないことにへこむことや、失敗してしゅんとすることや…。そういういろんな断片的なあれやこれやが宝物になっていくのだろうなと思う。そんな経験の幅、そうした自分の心の揺らぎを蓄積しておくことが大切なのだろうな。

大切?大切ってなんで?

結局、自分も、自分の感情や経験までも、知らず知らずのうちに、「役に立つ」か「役に立たないか」で判断しているのかもしれない。それはそれでまあいいか。まあいいのだけど、役に立たなくたっていいのだけど、揺らいで、矛盾して、凹んだり混乱したりする自分自身、一人一人、ひとつひとつの時間を愛でたいなと思うのであります。

いつからあるのか、どこから来たのか、なぜここにあるのか全く記憶にない、僕のデスクの上の石ころ。スヌーピーみたい。

いつからあるのか、どこから来たのか、なぜここにあるのか全く記憶にない、僕のデスクの上の石ころ。スヌーピーみたい。

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