そうだ、役割をまっとうしたいんだ!
文章を毎週書いていて、「よかった!」と思うことはたくさんあります(←今度まとめてみようと思います)が、中でも大きいのは過去の自分と今の自分の差分を確認できるところ。1年前とでもずいぶんと違うものなのです。ということで1年前の記事をたどってみると「どうやら、実は、世界は優しいらしい。」と書いておりました。
なるほどー、と思って読み返してみるとそこに書かれていたのは確かに私自身の言葉なのですが、何だか今の感覚とちょっと違う。今日はそのあたりを探ってみます。
1年前の文章に書かれていたことは…
①私は世界を「怖いところ」だと思い続けていた。
②とくに仕事の局面で「できないやつ」と思われたくない自分の恐れからその視点は生まれた。
③その恐怖は自分がつくりだしていること。まずは世界を信じてみたら?と思った。
④他者を信じて委ねてみると新しい世界が見えた。それが「優しい世界」。
大枠で要約するとそんな話でした。
改めて当時の文章を読み返すと、「優しい世界だと気付いた」と書いているのだけど、どことなく、「優しい世界と信じたい」「信じよう」と自分に言い聞かせながら文章を書いている感じがするのです(こういう雰囲気がうっすらと伝わってきてしまうから文章は恐ろしく、そして面白い)。
今の私の感覚で思うことは、世界は怖いところでも、優しいところでも、ない、ということ。というか「世界」がどう見えるかは大した問題ではないんじゃないかな、という感じでございます。
ちょっと言葉にするのが難しいのだけど表現してみます。
「怖い世界」にしろ「優しい世界」にしろ、自分が中心に居るんだなと思ったんです。「優しい世界」「怖い世界」という単語の前に“僕にとって”という言葉が入るんだろうなと。「“僕にとって”怖い世界」か「“僕にとって”優しい世界」。いずれにしろ、自分がど真ん中にいる。
僕が見る世界。僕にとって怖い世界か、優しい世界か。僕が傷つかないか。僕が優しくされるか。僕が恐怖を感じるか。僕が必要とされているか。僕が否定されるか。僕が、僕が、僕が…。
「自分」がど真ん中にいるのは自然なことだし、私は割と自分を真ん中に据えて世界をとらえてきたし、そうあるべきだと思ってきた節があります。が、今の私の感覚となんかズレている。そのズレははどこからくるのか…。ちょっと捉えどころのない思索にお付き合いあそばせ。
1か月前の記事に「『お参り』から1日を始めてみる。」というものを書きました。友人の勧めに従って、朝の始まりをご先祖様への「お参り」から始めてみた、という記事です。この記事を書いた少し前から、約1か月半の間、朝起きたら神棚とご先祖様に向かって手を合わせて、お参りする、ということを続けてみています。加えて、1日の終わりにも神棚とご先祖様に手を合わせる、ということをしております。
先の記事にも書きましたが「ご先祖様」をマルッとひとくくりにするのでなく、一人一人イメージしていくことが私的なポイントでして、今はだいたい、父方、母方双方のひいひいひいおじいさん・おばあさんぐらいまで一人一人イメージしてお参りをしております。加えて、妻のご先祖様やその日に会った大切な人のご先祖様までもイメージして感謝を伝え、ご先祖様の幸せを祈って一日を締めくくるのです。
これ、元の記事にも書いてますが特に宗教的な行いとしてではなく、素朴な「自分がここにいることの奇跡への感謝」として行っております(何かの宗教の勧誘とかは始まらないのでご安心くださいまし)。
ご先祖様の誰かひとりの何かが違っていたら(例えば誰か違う人と結婚したとか、その子どもが生まれる前に亡くなってしまうとかとか)、今、ここに私が存在していないという、その事実を味わって感謝する、ということです。
最近、お参りする「ご先祖さま」の中に、死産で生まれてこられなかった私の二人の兄を思うようにしております。もちろん、私自身は彼らのことを知らないですし、父も母もそのことを多くは語っていないので、両親の痛みを想像する程度ですし、実際に兄たちを感じてきたことはこれまであまりありませんでした。
それでも、お参りを続けるなかでふと思ったのは、彼らの生命が失われたから、今の私がいるのは間違いないわけで…。ちなみに私は一人っ子。兄たちが健康に生まれていたら3人目となった「私」は生まれてこなかった可能性が大いにあります。そんなわけで兄たちへ感謝と思いを向けたい、と感じるのです(ちなみに兄たちは自分の一部分として生きているという感覚が強くなっております)。
で、この習慣から感じたことがあるのです(たかだか1か月半の習慣だから、偉そうに言えることではないのですが…)。
僕が、僕が…、という感覚が薄れたというか…。「自分」というものが自分だけのものではないという感覚というか…。他者のために自分を棄てて存在しよう、みたいな話ではなくて。どちらかというと、この“有り難い”自分というものをきちんと大切にしたうえで、世界のために、他者のために与えられた役割を全うしたい、と思うようになったのであります。
そして私が日々、出会う人、ひとりひとりにもたくさんのご先祖様がいて、そのご先祖様の何かが違っていたらこの人もいなくてこの出会いもなかったわけで…。と考えていくといや、やはりこの出会い、その人と過ごす時間はものすごいこと、奇跡のようなものじゃないでしょか!?と素直に感動を憶えます。いやほら、ほんと、よく考えてください、すごいことです。
と、思ってもすぐ忘れちゃうんですが、毎朝、お参りをするとその凄さに立ち返れるのが素晴らしいことだと感じております(皆さんもレッツトライ!)。
やー、言葉にすると非常に月並みな表現になってしまいなんとも歯がゆいのですが、そうやってご先祖様代々から受け継いで今、ここに存在させてもらっている命を全うしたい、ひとつひとつの出会いを大切にしたいと思ったときに、「世界が怖い」とか「世界が優しい」とかは大した問題ではないと感じられる気がしたのです。これが、1年前の私と今の私のズレの正体、たぶん。
もちろん今も1年前の自分と変わらず、できないことだらけだし、日々、選択を間違えてまくっているし、足がすくむこと、逃げ出したくなることも、毒づくことも、イラつくこともしょっちゅう。人と人との関係の中でトラブル、うまくいかないこと、間違った発言をして相手を傷つけてしまうこと、後悔することばかりです。
だけど、世界が「怖い」か「優しい」かはさしたる問題ではなくて、ご先祖さま代々、脈々と生命を受け継いだ結果、何らかの因果で今、ここに存在する小さな自分をなるべく、なるべく、できるかぎり、活かし切って、与えられた役割を全うしたい、日々を目いっぱい生き切りたい、と思う次第です。
今日の文章は私の内面のお話で、うまく言葉に出来た気がしません。まあ年末ですし、1年後の自分がこれを読んでどう思うか、ということを楽しみに、今、感じていることのスナップショットとして残すことにしますので、ご容赦くださいませ。
じゃあ私の役割は何か、という話ですが、山で遊びまわってげらげら笑ったりしながら存分に皆さんと楽しい時間をシェアすること、これなんじゃないかな。最近人気の!?原っぱ大学youtube ショートの撮影風景。なんか楽しそうですばらし!役割全う! photo by Misa Mine
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