どうやら、実は、世界は優しいらしい。
2023年の終わりが見えてきましたね。皆さんはどんな2023年でした?ワタクシ的に激動の1年でした。ありがたいことにこうしてメルマガで週1回、自分の言葉をつづる機会があることでそんな激動の日々を一歩一歩、自分の心の内側を覗き確認し言語化しながら過ごしてこられました。そして年の瀬ギリギリに気づいてしまった大きなことがあります。
どうやら、実は、世界は優しいらしいんです。
これまで何度かこの場に書いているのですが、ワタクシは基本的に世界を怖いところ、危険に満ち溢れたところと深いところで思ってきたようです。特に「ビジネス」とか「お金」とか「事業」とか、そういう側面になると「あーん、怖いよー、えーん」とすぐなりまして、お部屋の片隅で耳をふさいで小さくなってしまうのであります。
だいたい、これが起こるときは同じパターンなんです;
①(主に仕事の局面で)何らか痛みを伴う事象が起こる
②その事象を引き起こしたのは自分が「仕事をできないやつ」だからだと決めつける
③そして「仕事をできないやつはダメなやつだ」と判断し、自分を責める
④凹む
このパターンが痛く、苦しいので①と②の間に「逃げ出す」「向き合わない」「見て見ぬふりをする」「放置する」という分かりやす逃避のアクションが入るのであります。そして、そんなアクションをとっている自分をまた責める。
特にこれは他者との関係で起こります。大切な方との大切な話であればあるほど、上のパターンに入ることが怖くなります(周囲の大切な皆さん、ごめんなさい)。何も起きていないのに、これから起きることが怖くなるんです。そして、文字通り身体が固まって行動できなくなる。
もう少し具体的なイメージがあった方が伝わると思うので書きますと…。
仕事で期待されていたであろう成果にたどり着けない。たどり着けていない事実を相手方に伝えて相談すればいいのに、成果にたどり着けていないことを伝えると、「自分が仕事ができない人間だ」と突きつけられそうで怖くなり、そのこと自体が伝えられない。そのまま数日放置、伝えるべきタイミングを超えてしまい、事態はますます悪化…みたいな。
社会人1年目とかでありがちな「ほうれんそう」ができない子、みたいな感じですね。ええ、そうなんです。そんな45歳。
この私の行動パターン、平常時ではまあ何とか誤魔化せているのですが、緊急度の高い局面で噴出すると大変なことになります。そんなこんなでここ1,2カ月、なんで、なんでこうなの?と向き合わざるを得ない日々が続いておりました。一人で向き合う時間はもちろんですがお世話になっている皆さん、チームの仲間との対話のなか、言葉で確認する作業を繰り返してきたことが大きかったです。そんなプロセスのさなか、ふと実感をもって見えてしまったことがあるんです。
私は、世の中を怖い場所と思い、他者を信じられないと思い込み続けてきたんだ。
この事実を実感をもって知った時にかなりの衝撃でした。だって、あたくし原っぱ大学のガクチョーとして、大人も子どもも対等だぜ!みんな楽しもう!遊んでいればなんだってOK!と他者を信じ、つながったら大丈夫だぜ、と言い続けてきたのです。
それなのに、自分自身は他者を信じられず、世界を怖がり続けてきたんです。
つい先日のこと、とあるシビアなミーティングの直前に世界が怖くて怖くて仕方なくなりまして、それこそパニック寸前(いや、あれはパニックだったのか)になりました。ああー、もうどうしようもない、ああ、もうダメだ、怖すぎるーー。ご先祖様助けてくださいーー!と、私の部屋にある曾祖父の写真にお祈りまでしました。
ものごとは自己責任でやるべし、みたいな思いが非常に強かった私が、そこまで必死にご先祖様助けてー、といったのは多分、初めてのことです。
そこまで究極に他力に頼らざるを得なくなった直後に、ふと、違う世界を感じられたんです。
その恐怖はお前自身が作り出しているもの。他者を信じていないのはお前自身。実は、世界が優しい場所だということを知って、まずはお前から相手を信じてみたらどうかな。世界は優しいところだよ。
いや、言葉にするとなんとも当たり前なこと。そんなのは手塚治虫の『ブッダ』に50年前から書かれているし、仏教やらなにやらで何千年も昔から言われていたことでござる・・・、とも思うのですが。
この当たり前すぎる気づきをびっくりするぐらい体感をもって感じられたんです。
あれ、なんか感覚が違う。なんか違うぞ、と。
これまで、「怖い」と感じてたときはその痛みがいつも身体の上の方にあったんです。二の腕とか、心臓の少し上のあたりがキリキリする感じ。で、今回、上の言葉を実感したときはそのエネルギーの塊みたいなのが、下の方におりてきて、おなかの奥の方に感じたんです。そして、痛くなくて暖かい。
あ、だいぶ怪しいですね。怪しいかもしれない。でもそんな体感の違いがそこにあって。そうしてみる世界の景色が全然違って見えた。他者は、信じられない怖い存在ではなくて、共にこの世界をカタチづくる仲間なんだってすっと思えているんです。
以前の記事で私は受け取るのが下手、と書きました。
今思うのは下手なのではなく、受け取りたくないと思っていた。受け取るのが怖かったんだって。こんな僕が受け取っちゃっていいの?とか受け取ったら何か返さなくちゃいけないんじゃないかなとか。そんな自分が立ち上がってきていたんだと。
昨日、以前私が経営者コーチングを受けていたグローバルコーチングのチームとそのクライアント経営者の皆さんが逗子の山に遊びに来て一緒に焚火を囲みました。私はホストとして場を案内したり、ご飯をつくったり、皆さんが気持ちいい楽しい場を味わってもらえるようにということに意識を全振りしていました。その時には自分の気持ちとか、自分にとってのいい場とかそういうことは放っておいたのですが…。気づくと皆さんから暖かい言葉をたくさんいただいて、結局、溢れんばかりのギフトをもらったのは私の方ではないか、という気がしてきました。
そして、ふと気づいたんです。私はホスト→だから皆さんを楽しませる方。皆さんはゲスト→だから存分に楽しむ方。という線を僕自身が半ば無意識に心の中で引いてしまっていたようです。
たぶん、その線は必要なくて、ゲストであってもホストであっても共に楽しんで共に渡して受け取ってを循環させていけばいいんだ。自分を外側に置く必要なんてないんだ。
と、思い至ったときにこれまたすーっと軽くなったのと、ストンと腹落ちしたんです。それぞれの役割やその時々のポジションはあれど、渡す・受け取るはそんな役割を超えて循環できるし、誰もが渡せるし誰もが受け取れるんだと(そしてそこに自分を含んでいいんだ、と)。
それが相手を信じるってことだし、優しい世界の体現なのだなって。
渡す、受け取るは「貸し借り」ではなく循環し流れていくもの。だから助けてほしい時は助けてと言えるし、それは決して格好悪いことじゃない。そうやってつながりあって支え合っていくのが世界なんだ。
世界が怖い場所だと思い込み、この人は信じられないと思いこみ、他者と自分の間にラインを引いて切り離れる選択をしていたのは自分自身。実は、世界が優しいと実感をもって知り、他者を信じて、優しい世界を味わう選択をするのも自分自身。
自分が作る世界は自分で選ぶことができるんだ。
そんなことを実感をもって感じたのです。
もしかしてそれは理想なのかもしれない。幻想なのかもしれない。分かった気になっただけかもしれない。明日にはまた恐れに取りつかれる自分がいるかもしれない。それでも大丈夫と。立ち返る場所ができた気がするし、今はそのことを信じたい。自分の体感をもっと深くしていきたい。
そしてこのことをたくさんの人と分かち合いたいと思っています。
実は、世界は優しいんだ。
冬の夜の焚火は最高でして。たくさんのことを感じさせてくれます。
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