「お参り」から1日を始めてみる。
ここ最近、小さく小さく、自分の習慣に取り入れたことがありまして。それが「お参り」でございます。また何を唐突に、という話ですがこれがなかなか新鮮でして、今日は「お参り」について書いてみようと思います。
「お参り」。何をまた唐突に、という話ですが。先日のこと、香川在住の友人で「子どもたちにライジャケを!」というライフジャケットの普及啓もう活動をやっている森重裕二さんのvoicyでお話させてもらったことがきっけかです。
森重君(と普段、呼んでいるのでそちらで)は仕事としては石材店の3代目、つまりお墓を作る仕事をしています。その仕事をする中で、彼は、私たちの日常と「お参り」の距離が広がっていることを実感すると言います。かつては日常の中にあった「お参り」だけど、今はそうとは言えない。
それは宗教的な特別な行為ではなくて、ご先祖様に思いを向ける当たり前の営みだったのだと。
なるほどー。
ただ、お墓をつくる“プロ”である森重君にとっても「お参り」は最初、日常的な営みではなかったと言います。毎日、お参りをする、と決めてまずは形式から入って1年間試行錯誤してつづけて、そののちに気づいた事、というのがこのnoteに書かれていまして、すごくいいので読んでみてください↓
毎日の「お参り」がボクにもたらしてくれていること。
この記事によると、最初は形から入ってお参りを繰り返していたそうで。そのお参りを1年間続けたそうです(すごい!)。それでもなんかはっきりしない感じがありながらお参りを続けていたところある先輩の言葉がすごく刺さったそうです。
「お墓の前で、ご先祖さまの幸せを願う。ただそれだけ…。その時間がとても尊いんです。」
なんかすごいですな。お参りというとどうしても自分のお願いを浮かべてしまいそうだけど、ご先祖様の幸せをただ祈る、ってすごい。その心持ち、素敵だなぁと思いまして。影響されやすいワタシはさっそく導入してみることにしたのです(まだ導入して10日間ほどですが)。
さすがに、毎日、お墓まで行くのは現実的ではないのですが、幸いなことに私が今、住んでいるのは曾祖父から受け継いだ築90年ほどの古い家。神棚と曾祖父の写真が飾った床の間が私の部屋にありますので、そこに毎日、お参りをしてから一日を始めてみよう、としてみました。
もちろん、これまでも神棚やご先祖様に手を合わせることはあったのですが、まあ正直、それは割と自分中心のタイミングだったと思います。仕事がうまくいきますようにとか、この困難を乗り越えられますようにとか、そういう「困った時の神頼み」的な位置づけばかりでした(スミマセン)。
そういう自分にほのかな後ろめたさもあり、却ってお参りをする頻度が落ちてしまっていたり、神棚の掃除をさぼっていたりしました。
心機一転。森重君の1年間の努力とそこから授かった英知に乗っかりまして、実践してみることにしました。
ご先祖様の幸せを願う。
床の間に飾ってあるのは母方の曾祖父・曾祖母の写真だけですが、この際、気にせずご先祖様皆さんの幸せを願ってみることにしました。そしてふと、ご先祖様といってもたくさんいるなぁ…、という当たり前の事実に思い当たったのです。
数年前に亡くなった私の父、父の両親(私の祖父母)、父の両親のそれぞれの両親、母の両親、母の両親のそれぞれの両親…。たった100年そこそこの、この顔ぶれだけで13人いるんです。しかも曾祖父たちの世代になると私が顔を知っているのは母方の祖母方の両親のみ。それ以外の6名の皆さんは顔も名前も知らない。
その上の世代になると16名増えて、さらに上の世代になると32名増えて…。しかも、妻のご先祖様の幸せも祈ろう、としたらこの数が倍になるのです…。
頭がくらくらするのだけど、そのたくさんのご先祖様の選択が少しずれていたり、違う人と結婚していたり、途中で亡くなられていたりしたら、間違いなく今の私たちは存在しないわけで…。そしてそのご先祖様の一人一人はそれぞれその時代を生きて、様々な人との関りや当時の社会的な出来事、自然現象、あれこれのなかで選択を繰り返してその生を全うする中で次の世代へ命をつながれたわけです。
例えば私の母方の曾祖母は曾祖父の後妻でした。前の奥さんが早くして亡くならなければ曾祖母と曾祖父は結婚せず、となると私の祖母は生まれず、と当然私の母はいなくて、私もいないと。妻の父方の祖父は戦争に行って乗っていた船が沈んだけどなんとか浮遊物につかまっているところを助けられて帰ってきたと。
直接の「血縁」という意味のご先祖様だけではなくて、その時代を生きた様々な人との関りがなければ今の私や妻は存在しない、という事実。
当たり前といえば当たり前なのですが、その事実に眩暈がしました。ご先祖様に感謝、という気持ちともまた違うというか、もっと深い畏れというか、驚きというか、自分の小ささというかそういう感覚であります。
ご先祖様お一人お一人に感謝したいと思いつつ、たくさんのご先祖様おひとりおひとりを思い浮かべるのが困難という、自分の想像力の限界も感じるのであります。
ちなみに1世代が30年だとすると300年前までたどると10世代。10世代前のご先祖様は1024名、300年間のご先祖様の合計は2047名!ちなみに、ちなみに、同様の計算式で1000年分、33世代とすると17,179,869,183人となるそうです。chatGPT先生の試算によると。ちょっとよくわからなくなるのでこの話はまた別途。
あー、これが仏教の言う「縁起」ってやつだ、と一人納得したのであります。たぶん。
縁起:全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す
先日のこと、家族で話していた時に、就職の話になりまして。妻が内定を受けていた会社の話になりました。「その別の会社に行っても楽しそうだったな」なんて何気なく妻が発言しました。でも、私と彼女が出会ったのは彼女が現実に選択した会社に行っていたからで、そうでない選択をしたらほぼ確実に私たちは出会っておらず…。
「もしお母さんがその選択をしたら君たちは存在しなかったことになるね」という事実を子どもらと話して、その時に自分の存在の危うさというかありがたさというかを切に感じ取っておりました。
人生とはそういうものですな。そのぐらい不確実な因果のなかでの私たちの「今」があるわけで、いいとか悪いとかではなく、目いっぱい今を生きねばと切実に思った次第です。
今日はなんだか仏教めいたお話でございました。合掌。
そんな折、ふと思い立って、東京からの帰りに北鎌倉駅でおりまして、ご先祖様のお墓にお参りしてきました。その帰り道、お寺の境内の落ち葉。なんだかこの話とつながって感じられました。
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