「自主性」と「主体性」の違いって何だっけ?
先週、「自立」ってなんだろ、というテーマでメルマガを書いたところ、思いのほかたくさんの反響をいただきました。そのなかで「自主性と主体性の違いについて、辞書的ではなくガクチョー的な訳も聞いてみたい」とコメントをいただきました。今回はいただいたお題に乗っかります。
まずは辞書を開かず、僕が持っているイメージから話をはじめてみます。
「自主性」というのは個人の外部に設定された「目標」とか「仕事」とか「やるべきこと」とかに対しての取り組み方についての表現ではないかしら。
「自主的に」教室の掃除する。「自主的に」会議の議事録をとる…、「自主的に」●●に取り組む。
そういった外部に存在する行動指針に対して、自ら進んで行動するのが「自主性」。だからそうした外部要因というか、自分の外の環境の「求められること」だったり「指針」だったりがあることが前提だし、そうした外部環境に対しての取り組み姿勢(行為・行動)のことを指すような気がします、たぶん。
だから「自主性」はその人の内部の思考とか気持ちは関係なく、単純な行為・行動として外部から観察・評価できることな気がします。
一方の「主体性」。こちらは外部環境ありき、ではない気がする。自分で決めること。自分でやろうとすること。自分で腹をくくって望むこと。自分が「やりたい」と思うこと。それは多分に「頭の中」「心の中」の領域の話の気がする。
だから多分、「主体性」の発揮の仕方にはいろんな形があるような気がします。腹をくくって、責任を引き受けるぞ、という様も「主体的」だし、何かに夢中になって意識しないままに没頭している様も「主体的」。楽しくて楽しくて仕方なくて没入しちゃう「主体性」もあれば、しんどいけど歯を食いしばってがっぷり向き合う「主体性」もあると思う。
「主体性」はおそらくジブンゴトとして、エネルギーを注いで何かに向き合う様。だから実は「主体的であるかどうか」は外側からは究極的には分からないものだと思うのであります。
もうひとつ、「主体性」と「自主性」の違いで大切だなと私が思うのは…。「自主性」は外部の尺度に対しての行為に対して、「主体性」は何に向かって発揮するかもそれぞれ個人の問題だと思うのです。社会的な要請や評価とは合致しない「主体性」もあるんじゃないかしら。主体的に仕事をするも、主体的にマンガを読むも、主体的にぼーっとするも、一緒(ほんとかな?)。
この週末のこと、原っぱ大学の今年最後の海の活動で、逗子海岸でイカダを作って浮かべる、というプログラムを実施しました。そのプログラムでの大人、子どもたちの様子にヒントがありました。
原っぱ大学でのイカダづくりの特徴は「教えない」こと。ワタクシ自身、これまで50艇以上のイカダづくりの伴走をしてきています。ので、どうすれば最適なイカダをつくれるか、答えを持ってしまっています。これを伝えてしまうと圧倒的につまらない。
だから努めて何も言いません。原っぱ大学の他のスタッフも黙っています。
そうすると、誰もゴールイメージがない状態になります。イカダを作りたくてうずうずして、妄想を重ねてやってきた子どもを除いて。その子は勝手に材料を集めて、手が動いて、どんどんイカダづくりが一人だけで進んでいく。その子の個人のイカダだけはできていく。うーん、まさに「主体的」。
一方で、イカダづくりに気分が乗らない子は枝をぶんぶん振り回したり、イカダができていないのに海に突撃したり、戦いを始めたり…。イカダづくりにまったく興味を示さない。それでもインパクトドライバーを使う局面になると一気にイカダに群がって夢中にビスを打ち込む。これまた、圧倒的に「主体的」。
対する大人たちは…。よくわからないけど、なんとなく協力して相談しながら「自主的」に手を動かし始める。なんとなく、場の空気を読んでイカダをつくり始めてくれるんですね。そっか、この人は何も教えてくれないのか、じゃあやるしかないか…という塩梅に。皆さん、大人!
そうやってしばらく手を動かしていくと、どこかでそれぞれのスイッチが入る瞬間があるんです。その瞬間から大人たちは「主体的」になったように見えます。目が違うというか、動きが違うというか。ジブンゴトとして嬉々としてイカダづくりに没頭している感じが伝わってきます。
と、ここまで書いてワタクシは気づきました。原っぱ大学の参加者が「主体性」を発揮しているであろう瞬間を目撃するのは非常に喜ばしいし、ワクワクする大好物であります。ただ、「主体性」を発揮することを要望・強要するような「圧」を出すことを極力、廃することと、「主体性」を発揮する対象は何でもいいという雰囲気づくりに注力しているようです(割と無意識に)。
「主体性」は個人の内面で発揮される事象なのに、「●●に対して主体性を発揮せよ」と圧をかけるのは土足で踏み込むような感じがするのです。「主体性」。難しいな。
ちょっとこねくり回しすぎてしまったかも。ここら辺で辞書を引いてみます。
自主性: 他に頼らず、自分の力で考えたり行なったりすることのできる性質。
主体性:自分の意志・判断で行動しようとする態度。
げ。なんかまた私の理解と全然違う気がする。
ワタクシのピントがずれているのか。ここまで勝手な言葉解釈にお付き合いさせてしまってごめんなさい…。この二つの辞書的な定義を並べると「自主性」と「主体性」の違いがちょっとよくわからなくなってきました。
コトバンクというのは面白いサービスでして、いろんな辞書からの引用をしてくれているのですが、「精選版 日本国語大辞典」からの引用でさらにこんなことが書いてありました↓
主体性:
① 行動する際、自分の意志や判断に基づいていて自覚的であること。また、そういう態度や性格をいう。
② 現代哲学で、存在論的に意識と身体をもつ存在者であるとともに、倫理的、実践的に周囲の情況に働きかけていく個体的な行為者であること。自己の意志で行為しながら、真の自己自身を実現していく態度。実存であること。
なるほど、主体性とは意思や判断に基づいていて「自覚的」である態度のことなんだ。ちょっと納得。ただそうなると、子ども達が没入する様は「主体性」の発揮ではないということになる気がする。なんせ、彼らは自分の意思や判断に無自覚なケースがほとんどに見えるから。
その場合に、あの、主体者として、自らの意思をもってイカダをつくったり、棒を振り回したりしている様は何と日本語で表現するのだろう??
コトバって、難しいわ…。そして自分が感覚で使っている言葉って何とあやふやで自分の感覚と印象に基づいた勝手なものなのか、と驚いております…。尻切れトンボですが、本日はこれにて失礼します。
10月の曇天の海。自分たちで作ったイカダで出航。半分沈んでますが、沈まないように主体的に?自主的に?バランスをとって頑張る大人と子ども。
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