お前が「やりたい」って言ったんだ(呪)。
年を取ると昔のことをよく思い出すらしいです。まだそんなに年寄りのつもりではないですが、ふと、小さい頃の記憶が溢れてきたので、今日はワタクシの幼少期の話をしてみたいなと思います。ワタクシ、名を暁(あきら)と言いまして、ひとりっこ、親族の中で一番年下。「あきらちゃん」をもじって「あちゃ」と呼ばれておりました。そんな「あちゃくん」の小さなころのお話。
あちゃくんは内向的・妄想癖たっぷりの子どもでした。チラシの裏紙に絵を描いたり、ガチャガチャで当たるキン肉マンの消しゴム人形(キン消し)やガンダムの消しゴム人形(ガン消し)や食玩(ネクロスの要塞ってのが一番のお気に入り)で世界を作って戦いごっこをしているのが一番幸せな時間でした。
母は「子どもは外で遊ぶもの」という思いがものすごく強い人でした。ワタクシが家に居て、人形で戦いごっこをして遊んでいると外に追い出されました。「子どもは外で遊べ!」と。今の時代では考えられないけど、肌の色が白いと怒られたものです。私、元来は色白なんです。そんな私に母は「肌が白すぎ。外で遊んで焼けろ」と。理不尽極まりない…。
そんなわけで、母に家から追い出されたので家の外でよく遊んでいまいた。ただし、球技は大の苦手、大嫌いだったので、必然的に遊ぶ場所は山とか海とか、僕が生まれ育った逗子の自然の中になりました。探検したり、秘密基地作ったり、ドロケイしたり、BB弾の鉄砲で撃ちあいしたり。原っぱ大学の原点はこの理不尽極まりない母の圧力のたまものであります。
そう、あちゃくんは極めて運動が苦手でした。球技、大嫌い。
なのに、小学1年生のときに少年野球チームにぶちこまれました。そんなことを言った記憶は一切ないのだけれど、僕が「入りたい」と言ったらしいです。
とにかく、この少年野球が嫌で嫌で仕方なかった。
毎週、日曜日の練習の朝は「雨が降れー、雨が降れー」と祈ったものです。朝起きて雨戸を叩く雨音がする、と思ってすごくうれしくてルンルン気分で雨戸をあけるんです。でも風で雨戸がなっていてだけ、これっぽっちも雨が降っていないと発覚したときの絶望感たるや…。
打撃練習のときはすごいスピードで飛んでくる小さな球にバットが当たる気がしない。実際当たらない。守備練習のときはフライがどこに落ちるか想像もできない。高速で飛んでくるゴロを取れる気がしない。実際、捕れない。コーチが怖い。スパイクが合わなくて足が痛い。走っても遅い。怒られる…。上手なチームメイトに見下されている(と勝手に思って卑屈になる)。
↑はごく一部。少年野球への恨み節は語りだしたらいまだにあふれ出てきます(野球好きの皆さんごめんなさい)。
そして、両親はいつだって「お前がやりたいって言ったんだぞ」と決まり文句のように脅迫してくる。そんなこと言ったことないもん。言ったとしてももうやりたくないんだもん…。そんな小さなつぶやきは言葉として発することすらできず、6年間チームに所属していました。
そんなだから6年間一度もヒットを打った記憶なし。出塁経験はデッドボールぐらい。いまだに野球は嫌いです、はい。
野球を貶めたいわけではないし、両親が人でなしだったと言いたいわけでもないです(両親の名誉のために書きますと、深い愛をもって大切に育ててもらったことは間違いないです)。ただ、僕にとってはこの毎週やってくる「野球のある日曜日」は苦痛でしかなかったし、35年経ってもいまだに恨み節が溢れてくるのってすごいなと思います。
そして、そんな「あちゃくん」の原体験レンズを通して今のワタクシを眺めてみるといくつか気づきがあるのであります。
①原っぱ大学の大切な部分はこの当時の苦痛から生まれた
「集団行動」を強制される苦痛。「お前が言っただろ」と自発性をなぞらえながら大人の正解を押し付けられることへの反発。上手い下手でジャッジされることへの恐れ。ありのままで居られないことへのやり場のない怒り…。
そのどれも、小さな「あちゃくん」が感じて傷ついて、でも言葉にしたり反発したりできなかったこと。そして、原っぱ大学はこの真逆の在り方を大切にしているんです(当初は全く無意識でしたが)。原っぱ大学では集団行動を押し付けることはないし、強制はないし、一度言ったことを変えても怒られることはない。お互いをジャッジすることなくその場に存在できる空間をつくろうとしているのであります。
私にとってはまさに、あのときの日曜日に失われたものを取り戻す活動のような気がします。そして願わくば、あちゃくんと同じように傷ついたり凹んだりしている大人・子どもにとって回復の場であれたらなと思うのであります。
②「かっこいい」「できる」男への圧倒的な憧れが根付いた
また一方で、そんなワタクシでもその集団のなかで活躍したい、っていう憧れがあったようです。マウンドに立って注目集めてかっこいい球を投げたい。キャッチャーでドーンと構えてチームをまとめたい。カキーンと外野にヒットを飛ばして全力で塁を回りたい。
そんな思いは「できる男」へのあこがれとして確かに強く、残ったのであります。競争に勝って、舞台に立って、「うまいね」「かっこいいね」って言われたい。華々しく目立ちたい。
①の反発と真逆のようなのだけど、その後の学生時代、社会人になって着実に育まれまして、ちょっと前に書いたこの記事、今のシャチョーとしての自分の欲求の自分の根っこになっているのだと思います、たぶん。
③父親としては無自覚に同じような経験を子どもにさせてしまっている、かも
こうした経験を自分は苦しさをもって体感したわけで、わが子にはそんな思いをさせたくない、と常々思っていたけれども…。父親としての自分を振り返ると、無自覚に、無神経に、一方的な押し付けをしてきてしまっていただろうなと思います(もしかして今もしているかも)。
ちなみに今、高校3年生の長男は小学1年生のときからラグビーをやっています。今でこそ、彼にとってラグビーは人生の中心にあり、彼を強くする素晴らしい経験のように傍から見ていて感じます。が、小学1年生で彼がラグビーを始めたときはおそらく、私の野球体験と同じような苦々しくつらく、苦しい思いをさせてしまっていたようです。痛いし怖いし、何が面白いのかわからない。小学生時代前半の彼にとってラグビーはまさに、僕にとっての野球と同じような位置づけだったようです。ごめんなさい。
④時がきっと解決してくれる。そう信じたい
そんな風な半ば強引に苦痛をもって出会ったラグビーは、今や長男の人生の中心、人格形成やコミュニティのど真ん中になっています。また私にとっても、苦痛にあふれた少年野球の時間は原っぱ大学をはじめ、続ける私自身の根源的なエネルギーの源泉になっています(たぶん)。
そう、だから苦々しい体験も、傷を負う時間も、時の変遷のなかで意味合いが変わっていく。変えていくことができる。
損なわれたからジ・エンド。傷ついたから、傷つけてしまったからおしまい。失敗したら即終了…。ということではなく、苦しみや苦々しい体験や他者への恨み辛みがあっても、その意味合いは時間ととともに癒され、解釈を変えて、糧にできる、と思いたいなと…。
もちろん、私が体験したことのないような圧倒的な絶望や不信が生じる決定的な出来事、というのが世の中にはあるのかもしれないけれども。
それでも時間と共に人は変わり、解釈を変え、糧にしていける(もしかして1世代では完了できないかもしれないけど…)。そんな風に私たち自身を信じたい、と思うのであります。
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