「もう、無理です」からはじめよう
なんだかいきなり刺激的なタイトル。これまた、先週のメルマガに引き続き、私たちの朝6時の定例ミーティングで出た話題です。私たち(特に昭和・平成世代の男性)に根強く染みついた、頑張らねばならん、稼がねばならん、強くあらねばならん、勝たねばならん、弱音をはいてはならん…。そんなど根性な「ねばならん」精神からの解放について、が本日のお題。
最近、様々な点がつながっていくというか、環がつながっていく感覚があるんです。起きている事象の相似形というか。全く別のケースなのですが、ここで起きていることはこっちにもつながっていて、ここで起きている事象とここで起きている事象はこんな風に似通っていてそこにはこんな根っこが潜んでいそうで…。といった感じ。
もちろん、その事象を見つめているのはワタクシの眼差しであり、思考であるから、勝手にパターンを抽出して法則性を見出しているだけかもしれません。でも同時代を生きてきている私たちだから、意識にあげられること、無意識下のことを問わず潜在的に共通した課題というかニーズというかをもっている、ということも言えると思うんです(たぶん)。
で、我ら昭和・平成育ちメンズの「ねばならん」精神についてでございます。
友情・努力・勝利。「週刊少年ジャンプ」に通底する価値観だったのだそうな。「北斗の拳」「キン肉マン」「聖闘士星矢」「魁!!男塾」「ろくでなしブルース」etc。我らを育ててくれたジャンプ漫画のストーリーに共通するものですな。ジャンプのせいにするわけじゃないけど…、同時代に育った僕ら男子が心の深くに、オトコたるもの「こうあらねば」のOSをインストールしてきたのかもしれませぬ。
これには時代背景の要因がたくさんあるはずです。高度経済成長の時代だったり、個人主義・合理主義の台頭だったり、都市化・核家族化だったり。そのあたりは社会科学の領域だと思うので深追いはしません。「週刊少年ジャンプ」はそんな時代の空気を敏感にメディアに反映しただけなのだと思います。
ちなみに、同じジャンプ出自の令和漫画「呪術廻戦」は味付けこそ当時のジャンプと似ておりますが通底するテーマがまるで違う。より現代的で非常に示唆に富んでいるのであります。なんといっても、世にはびこる呪霊と言われる『呪い』が顕現した存在たちと戦うお話ですから。さすがはジャンプ。時代の空気を察知する力が素晴らしいのであります。未見の方、おすすめです(ちなみに私はコミックスではなくアニメ派です)。
とにかく、私は思うのであります。当時は私たちを応援して勇気づけてくれた「友情・努力・勝利」という時代の声が、いつの間にか自分たちを縛り苦しめる「呪い」になってしまっていた。しかも心の奥深くに隠れて気づきもしない呪い。
それがいま特級呪霊「ネバナラーン」となって僕らを苦しめているのかもしれません。
何度かここに書いておりますが、私の中にも「ネバナラーン」は深いところにおりまして時々顔をだします。稼がねばならーん、勝たねばならーん、愚痴をいってはならーん、それができないお前はダメなやつだ!どどーん。
そんな感じです。自分の中のネバラナーンの攻撃に負けないために、心を閉ざし、見て見ぬふりをし、やりすごす。ええ、これを書いている今でもそんな感覚があるのであります。
そして、そんな話は私だけの問題ではなく、あちこちで聞くのです。親子関係において、夫婦関係において、あるいは自分の生き方の選択において。「ねばならん」がヌリカベのように立ちはだかって先が見えない。聞こえない。選択肢が広がらない。自分や他者の心の声が聞こえなくなってしまう…。自分に向けられた助け舟が攻撃に感じられてしまう。
↑画像生成AI stablediffusionで特級呪霊ネバナラーンを描いてもらったらこんなのが出てきました。こわ!!
いかにしてそんな呪いを祓うか。我らの朝6時のミーティングのテーマはそんなだったわけですが、そこで共同創業者の志村が示唆し、我らがたどり着いたひとつの結論、それは…。
明るく朗らかに「ハイ!もう無理です!」と宣言すること。そこからはじめることじゃないかしら、というものでした。
「ねばならん」の精神は同時代の私たちが取り込んでいる古き価値観だから、それは自分の心の中だけでなく、他者の心の中にも無意識下に入り込んでいるのだと思います。例えば夫婦の間で、例えば仕事の関係で。ひとつひとつの人間関係や役割意識のなかで「ねばらん」を自然とお互いに、強化してしまっているのかもしれません。
「オトコたるもの●●せねばならん」「オンナたるもの●●せねばならん」「父親たるもの●●せねばならん」「母親たるもの●●せねばならん」「リーダーだから●●せねばならん」「子どもだから●●せねばんらん」…。
ねばらんは、ある時期は私たちの社会を前に進めた大切な推進力だったかもしれないけど、今はいったん、手放してみていいタイミングなのかもしれません。ねばならんを手放すことはもしかして「終焉」や「絶望」につながるかもしれない、そんな恐れが私たちの中に強くあると思います(私の中にもあります)。ですが、その恐れは幻想かもしれない。
特級呪霊「ネバラナーン」が立ち上がってきたときに、明るく、元気よく、朗らかに。「ハイ!もう無理です!限界です!」と言ってみられたら。きっと「ネバラナーン」は祓われて、自分の中に新しい何かが生まれる。他者との新しい関係性が始まる。
そっか、無理か。ではどうしましょうか。と新しい問いが立ち上がる。そんな風に思います。
ですから。半ば諦めをもって、半ば自暴自棄に、半ば破れかぶれに。でも心は開いたままに、大きな声で朗らかに発してみましょう。
エブリバディ、リピート アフタ ミー。「ハイ!もう無理です!限界です!」
ちなみに、下の写真は我が家に先週、遊びに来て数日間泊まっていったニュージーランドの友人、Chrisがワタクシにくれた「がんばらないシャツ」。おしゃれでしょ。シャツのあちこちに手書きで「gambaranai gambarani gambaranai…」と頑張って書いてくれています。
ワタクシと同い年のChris。生まれ育ったカルチャーは全く違うけど「ねばならない」の苦しさを抱え続けて、自分のなかに痛みや弱さをかかえ、そんな痛みが内側にあるからこそ文化を越えてつながれた大切な友人です。「ねばならない」の呪いは日本固有のものではなく、世界に通じる、現代社会特有の呪いなのかもな、とChrisと話しながら思った次第です。この続きはまた今度。
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