「遊び」に貴賤はない。ゼッタイない!(はず)

前回の文章で原っぱ大学は「大人と子どもが思い切り遊ぶ場」だと書きました。自分で書いておいてなんですが「思い切り遊ぶ」ってどういうことかしらね。そもそも「遊び」とは何でしょう…、ってことを考えてみたいと思います。
塚越暁 2023.04.11
誰でも

こんにちは。原っぱ大学ガクチョー塚越です。前回の文章で原っぱ大学は「大人と子どもが思い切り遊ぶ場」だと書きました。自分で書いておいてなんですが「思い切り遊ぶ」ってどういうことかしらね。そもそも「遊び」とは何でしょう…、ってことを考えてみたいと思います。

発達心理学や教育学などで「遊び」を定義しようとするといろんなきちんとした定義があるかと思いますが、いったんそういう学問的なことは脇に置いておきます…。

ワタクシは「遊ぶ」ってことは、心と身体が自分のやりたい、ありたいままに没頭している状態だと考えています。

「心」ってのが特に大事で。

表面的にみて「遊んでいる」ように見えて全然遊んでいないってこともあるし、他者から見たら「遊んでいない」ように見えて遊んでいることだってある。思い切りワーワー騒いでいるけど遊んでいないこともあれば、シーンと静かな「遊んでいる」だってある。

身も蓋もないけれども、その人が「遊んでいる」か否かは究極的には周囲から判別できないと思います。「遊び」は非常に主観的な、主体的な営みなのであります。

まったくの余談ですが、ワタクシは「主体性を育む」とか「主体性を伸ばす」っていう表現がキライです。「主体性」なんてものは育むものでも伸ばすものでもなく、遊んでいれば勝手に生まれてくるもの、自然と主体的になるものだと考えております。主体的でないのはそれはそもそもその人がやりたくないことなわけで。本来人は主体的な存在なわけで、方向性が合致しているかどうか、ってことでしかないのに、何を言ってるんだ、と思ってしまいます。「主体性を育む」と言いながら、コントロールしたいんだろうな、とうがった見方をしてしまいます。

閑話休題。

そんなわけで、遊ぶという行為は非常に個人的、主観的、主体的な行為だと考えております。だからこそ、原っぱ大学において、大切にしていることが2つあります。

その①。決定権を参加者のひとりひとりがもつ(大人も子どもも)ということ。

「今は〇〇をする時間だから、他のことをやらないで」とか「はーい、全員で〇〇をしますよー、そこそこ、勝手なことをしないー」といった場の仕切りはしません。もちろん、安全と安心をつくるための声がけはときに厳しくします(ただし、それはまた別の話)。きっかけをつくるために全員に声がけもします。ただ、その流れに乗る・乗らないの判断やどう過ごすかの判断は大人も子どもも一人一人にゆだねられる。

自分の在り方と行為を自分で決めて誰にも何も後ろ指差されない場。それが原っぱ大学です(繰り返すけど、安全が脅かされたり、他者の安心を損ねるような場合は別です)。

その②。遊びを評価・ジャッジしない。

そんなわけで、どんなありかた、行為だって遊びなわけだし、尊重されるのであります(安全・安心を損ねない限りの但し書きがここでもつきますが)。

でも、私たち大人は無意識のうちに遊びを評価し、「正解」に寄せようとしてしまいます。

「せっかく原っぱ大学に来たのだから泥んこになってきなさい」とか、「ほかの子と強調して仲良く遊びなさい」とか、「今はそれをする時間じゃないでしょ」とかとかとか。

ここはなかなか難しくて私自身を含む我々大人の中に、行動の癖として、目的や役割や立場を基準に物事を判断する思考が深く慣習として根付いているからだと思います。

「いい遊び」と「ダメな遊び」なんぞありませぬ。いい、悪いを切り分けているのはそれを主体者の外側から見て勝手に判断している側のラベルなんです。

とはいえ、日々の日常生活のなかで「決定権をゆだねる」「遊びを評価しない」をやり切るのは難しいですよね。朝から晩まで大好きなゲームをやり続ける子どもをそのままにして声がけしない、っていうのはさすがに難しい…(それが正しいかもよくわからんし)。

日常においてはそりゃ難しいと思うのですが、遊びの聖域としての原っぱ大学では、大人も子どもも、それぞれが自己決定の主体者として、誰からも評価・ジャッジされずに遊べる場を作っていきたいと考えており、そこに私たちはこだわっているのであります。

と、ここまで書いて本来、私たちの人生そのものが私たち一人一人が誰からの評価・ジャッジも関係なく、自己決定の主体者であるのだと思います。主体者であるということはその行動に責任が生じるし、他者との関り、衝突もあるでしょうがそれも引き受けて生きる、ということが原っぱ的、理想的なありかた。そんな社会をつくっていけたらな、そんな風に一人一人があれることに貢献したい、というのが私たちの描く理想像です。

そんな思いを込めて、私たちHARAPPA株式会社のミッションを「余の復権」と置きました。長くなってしまうので、この話はまた追ってじっくりと書きますね。

ではでは!

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