大人と子どもの境界線ってなんだろう
こんにちは。原っぱ大学ガクチョー塚越です。こちらのメルマガではワタクシの思いの丈をつれづれ、思いつくままに書いていきます。お付き合いくださいまし。
「原っぱ大学ってどんな場?」ってよく聞かれます。そして、参加したことのない方にこれを端的に伝えるのが難しいな…、っていつも感じております(ワタクシが感じているぐらいだから参加してくださっている皆様がご友人などに伝えるのはますます大変でしょうね…、スミマセン)。
「泥んこになって遊ぶ場所」「焚火やったりするところ」「森の中の遊び場」…。全部正解。でも完全に伝えているわけではありませぬ。
ワタクシは端的に伝えなくちゃいけないときは「大人と子どもがおもいっきりで遊ぶ場所」って表現しています。
“大人と子ども” が “おもいっきり” “遊ぶ”。
それなりにシンプルです。ワタクシが一番こだわっているのが“大人と子ども”って部分なんだなって思うんです。ここをいつも強調している気がします。
そう、子どもだけのための場所じゃないんです。「子どもが遊ぶ場」でも「(大人が)子どもを遊ばせる場」でもなくて。大人と子どもが遊ぶ場。
些細だけど重大な違い。
私たちはとかく、境界線を明確に引きたがります。「親」と「子」。「先生」と「生徒」。「大人」と「子ども」。そうやって輪郭をはっきりさせることで物事を認識できるようになる。それはそうなのだけど。でもそうやって線を引いて、お互いの立場とか役割とかを明確にしていくことで、無意識に固定化した関係性が生まれる。息苦しさが生まれる。
「大人だから」ちゃんとしないといけない、恥をかけない、失敗できない…。「子どもだから」勉強しないといけない、勉強しないといけない、友達と仲良くしないといけない…。
社会で生活をしていくうえではそういう輪郭と境界線はきっと大切だと思うのだけど、せめて遊ぶときぐらいはそんなもの取っ払ってしまえばいい。ただ一人の人間として存在して、その存在そのままに遊び、その存在そのままに笑って、怒って、喜んで、悲しんで…。そんな時間を味わえたら最高じゃないか。
また、大人の側からみると、線を引いて自分を外側に置いちゃうとある意味「らくちん」だったりするんです。ここは子どもの場だから、私は見守るだけでOK、連れてきたことで任務完了。あとはよろしくお願いします。てな感じで。自分を場のメンバーの外側において「よろしく」してしまうととってもらくちん(この感覚、僕の中にもあるのでよーくわかります、はい)。でもね、それだともったいない。そしてその感覚がぐるっと回って大人自身を疎外する。そして疎外された大人にばかり関わられていると子どもたちが疎外されていくと、僕は考えています(ここもワタクシがこだわっていることだけど長くなりそうだから別の機会に…)。
だから、大人と子どもの間に境界線を引かない。そんな感じで原っぱ大学をやっております。子どもはもちろんなのだけど、大人も自分に帰っていく、親として、社会の責任ある立場としての自分をいったん脇においておいて、そのまんまに、その瞬間にありたい姿であれる、やりたいことをやれる。そんな場を作っていきたいなと思っております。
子どもは、そういう場の空気を割と素直に受け取ってくれる。そして文字通り好きに過ごしてくれる。でも大人は時間がかかる(ことが多い)。そりゃまあそうですよね。そんなのもちろんわかったうえで、のんびり焚火を囲んで、好きに過ごしてときにぶつかり合う子どもたちから刺激を受けて、大人たちが自分に帰っていく、それが原っぱ大学でございます。そうありたいと願っております。
ということで、私の結論としては、大人と子どもの境界線なんて本来ないんだもん、と思っとります。恣意的に、我らが引いてしまった境界線を取り除いて遊ぼうぜ。
そしたら「遊ぶ」っていったい何だ?!という話ですが…。それはまた今度!
ではでは~。
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