話しても分かりあえない、でいいんだ。
僕には高校のころからの30年来の友人たちがいます。高校のラグビー部のチームメイトたち。数カ月あるいは数年に一度、集まっては語らう5人の仲間たち。ここ10年近く、この仲間のメインテーマはずばり政治。政治に大きな動きがあると「そろそろ集まろう」と誰からともなく招集がかかるのです。ということで今回のテーマは政治と対話(重たいかしら…)。
我ら、若かりし頃にチームメイトだっただけの縁。そのころは共に楕円を追った仲ですが、その後の人生はそれぞれの道を歩んでいます。経営者もいれば、会社員もいれば、研究職もいる。日本を飛び出している人もいる。だから、当然、政治信条も支持政党も見事にバラバラです。
この集まりが始まったのはいつだったかしら。参議院選か衆議院選か、総選挙の度に集まって、自分はどの党に入れたか、なぜ入れたか、ということを肴に語り合う。そんな集いが何年も続いています。コロナ禍のときは選挙速報を見ながらオンラインでも集まったりもしていました。
ここのところの会場は、サイゼリヤ。
僕らが高校生のころ、学校のそばの駅ビルにサイゼリヤがありまして。貧乏ラグビー部員の我らはフォッカッチャ(確か100円)とミラノ風ドリア(確か280円)だけを頼んでひたすら長居していた記憶があります。
思い出の地、サイゼリヤ。
昨今のサイゼリヤはの繁盛っぷりは半端ないです。ファミリーはもちろん、高校生や大学生のグループから、仕事帰りにワインを楽しむお一人様まで…。多様な人々が集って、熱気が溢れている。普通のファミレスとは違う、でも居酒屋ともまた違う、自由でゆるやかで気軽な空気。すごく騒がしいけど落ち着く場所。
ひたすらに好き放題に飲み食いして、3時間話し倒して1人2000円。お財布にも優しい。
現代のオアシス、サイゼリヤ。
閑話休題。
先日のこと、そんなサイゼリヤの熱気に包まれてオジサン5人で政治談議をしてきました。右と左。大きい政府と小さい政府。理想と現実。生活者目線とマクロ視点と…。合理的に説明できること、できないこと。好き、嫌い。
そもそもの信条が違うから、永遠に合意にたどり着かない。完全なる分かり合いは生まれない。
でもなんだか、その感じがとても気持ちいいのです。
ネット空間で話題にしたらあっという間に炎上するような内容(だから、僕らが話した具体的な内容はここには決して書きません。書けません)。ともすればお互い、罵詈雑言を浴びせ合うような信条の違う人間が5名集まって、文字にしたら即アウト、というやり取りをしているのだけど…。
そこには『憎悪』みたいなものが全く溢れない。むしろ、違う立場を貴ぶというか、立場が違うことを面白がる空気が流れているのであります。
この違いは何だ?
顔が見える関係。30年前に毎日一緒に走り回った仲間たちですもの。
文字情報ではない。無責任に発して流れていく記録されない言葉たちの気楽さよ。
そもそも合意や説得を目的としていない。そう、僕らは「違う」ことを楽しんで面白がっているだけなのかも。
そして、ひとつの仮説が浮かびました。
大人になってからの関係はどうしても、立場とかポジションとか思想信条とかが相手を認識する「ラベル」として先にあって、その「ラベル」を貼ったうえでやり取りが始まることが多い。自分自身もその「ラベル」に基づいて言葉を発することが多い。そんな「ラベル」と自分が自然と一体化するんだな。だから、「ラベル」を否定されると自分を否定された気になっちゃうのかもしれない。
他方、僕ら5名の関係性はそういう「ラベル」が自分や他者に貼られる前からの関係性なのだと思う。ただのチームメイト。必死になって走り回って、バカなことばかりやっていた仲間。そのときのお互いの関係性がベースとしてあるから、政治信条のような「ラベル」と自分や相手が一体化していない。相手の言葉と相手そのものを切り分けて認識できる。だからきわどい話題でも、すぐに「ラベル」以前の、相手と自分の関係に立ち返れるから、安心して立場の違いを楽しめるのかもしれない。
ラベルはあくまで、ラベルでしかないんだよな…。
若かりし頃の仲間は大切にしたいと改めて思うのと、大人になってからの付き合いも、「ラベル」に縛られない関係性をあちこちにつくっていきたいです。そんな関係がたくさんあったらきっと世の中は平和になるだろうな、というのが本日の結論です。
すでに登録済みの方は こちら