目を合わせるではなくて、目線を合わせる。
先日のこと、我が家に遊びに来てくれた引っ込み思案な小学1年生女子と、すごく心地いい時間を過ごせました(彼女は6歳、私は47歳。実に40歳以上の年の差)。言葉はあまり交わしていないけど、何だかお互いにわかり合えた時間。それは、目線を合わせることから始まりました。
彼女は原っぱ大学の前身、子ども原っぱ大学の頃にチームを支えてくれた仲間、のだけんさんのお嬢さん。都内に住んでいるので普段は会うことがあまりないのだけど、年に一度、ご家族で逗子まで遊びに来てくれます。昨年は会えなかったので、彼女と会うのは2年ぶり。
控えめな彼女に対して、声がでかくて髭もじゃの私は獣のごとく映るのでしょう。毎度のことですが、会ってすぐの彼女は人形のように固まります。「私は生き物ではありません。私に構わないでください…」。
車で一緒に移動するときも、レストランでお昼を食べるときも、基本的に「私は空気です」オーラを完璧にまとっています。若かりし頃のワタクシはそういうオーラを纏う子に全力でアプローチしたりしていたのですが、年取って、無理やり人様の安全圏に突っ込むようなことはしなくなりました(成長)。
ランチが終わって、我が家にきて、海岸で彼女が集めた貝殻を床に並べ始めました。ちょっとだけ、場にも慣れてきたのでしょう。ワタクシは遊ぶことを10年以上、生業にしてきた人間。そういうふとした緩んだ瞬間を見逃してはならんのです。
私は全力で床に這いつくばって、彼女が拾ってきた貝殻たちに興味を向けました。
40個近くある貝殻の破片たち。実際によく見ると実に面白い。貝の形、色、大きさがまちまち。巻貝の規則的な模様は本当に美しい。平たい貝の裏面のキラキラした風合いは本当に不思議。貝なんだけどタコみたいにみえたり、パンみたいにみえたり。
彼女と、目線を合わせる。
物理的な目線を低く、低くして、彼女と同じかそれよりも下の高さにして…。同じもの(貝)を同じ目線で見る。そして自分なりに勝手に面白がる。思いついたことを無責任に発言する。彼女の発言に無責任に反応する。そこに「学び」があるかとか、「探究」を深めるとか、そういう浅はかな大人の思考はすべて放棄する。彼女の気を引こうとも思わない。彼女と目を合わせようともしない。彼女に質問もしない。勝手に貝を楽しむ。
そんな私を見て妻が「あのおじさん、勝手に遊んでいるだけでしょ」とつぶやく。そのとおり。そうやって、彼女が集めた、彼女が夢中になっている対象(今回は貝殻)に、全力で、目線を向けて楽しみつづける。愛でる。発見を味わう。彼女の発見も受け取る。
気付くと僕らは共犯者みたいな関係になっている。そしていつの間にか、彼女の心が溶けているのです。警戒心が解けて、さっきまでの「放っておいてください」モードを解除。饒舌にお話をしながら、一緒に貝ワールドを楽しむ仲間になっているのです。
きっと彼女も楽しい時間を過ごしてくれたと思うし、私も楽しかった。心が温まる時間でした。
目線を、意識を相手に向けるのではなく、そこにある別の対象物に向けること。相手と同じ目線で真剣に、そして勝手に味わうこと。対象物を介した全力の「面白がり」を通じて、私はずいぶん多くの子どもたちと気持ちの交換をしてきた気がします。「仲間」になってきた気がします。
そしてこれは子どもとの関係性だけの話ではないのだと思います。
「あなたの心が知りたいんだ!」「あなたと仲良くなりたいんだ!」みたいな感じで面と向かってこられたら誰だって引いちゃいますものね。
目を合わす前に、目線を合わせる。うむ。
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