私の手書きの雑な文と、AI作の整った文章。
今日は終日、フィールドに出ていてねむい。書きたい文章が定まらない。とにかく早く布団に入りたい。困ってしまった。困ってしまったから手書きで文章を書いてみることにした。
以前に一度手書きの文章をコラムにしたことがあるのだけど、案外、悪くなかった。今曰もそうだ。PCだと浮かばない文章が手書きだてスラスラ浮かんでくるから不思議。困ったときの手書き文章。
手で書くと全体の構成が意識できなくなる。ただ、目の前に文字をひとつひとつ置いていく作業。文章を書くスピードは格段に落ちるのだけど、その分、素直な言葉が沸いてくるから ふしぎ。

実はさっき、AIに文章を作ってもらった。
claudeの最新・最強モデルopus4.7に私の過去 3年分のコラムを読み込ませたの。その上で 盟友、もっちゃんとのポッドキャストの文字おこしファイルを渡して、僕の思想、文体、構成をまねて、僕になり切って文章を作って、とお願いしたのです。
こうした試みは2023年から時々行っているのだけど、今まではどれもいけてなかった。天才opus君ならきっとおどろくべき文章を作ってくれる!!と思って楽しみにしていたのだけど…。
これがぜんぜんダメでした。ちっとも面白くない。もちろん、僕の指示の出し方が雑だからというのもあるのだろうけど。

面白さがない。心が動かされない。なんとなく形はそれっぽいのだけど、ただそれだけ。「情報」を伝えるための文章ならそれでもいいのだけど、僕が書きたいのは「情報」ではないんだな。ある種のデコボコさと、その瞬間の自分の心に浮かんだなにがしかの記録。これを記したいの です。
そりゃAIにそんなものをお願いしたとて、できるわけがない。
先日、NHKのニュースでやっていたけど手書きの日記を販売するマーケットのイベントが盛り上がっているんだって。

分かる気がする。「客観的な情報」に僕らは食傷気味なのよね。誰かの、個人的な、偏った日常の方がよほど 面白い。そんなわけで私は自分のこのとりとめのない文章と、汚いエンピツの文字を世界にさらすのであります。
最後に思ったこと。身体ってすごい。
なんか今日の文章は頭を使っていない気がする。身体で書いている気がする。頭は動いていない。判断できていない。思考できていない、それでも文革が沸いてくる。
人間、すごいぞ。

おまけ。claude opus4.7が書いた私テイストの文章:
(いかがかしら、案外、こっちのほうが心に響く文章だったりして。それもまたよし)
「最悪、魚取って生きるわ」と言える土台について
先日、盟友のもっちゃんとPodcastを収録していて、ふと自分の口から出てきたフレーズに、自分で書きながら膝を打ってしまいました。
「巨大ロボットが暴れる世になっても、俺の家の前の山が崩れるわけじゃないし。最悪、魚取って生きるわ、物々交換で生きるわ、って思える」
世間のAIに関するざわつきは、ここ数カ月で一段、強くなった気がします。「仕事がなくなる」「AGIが来たら世界が壊れる」。ラジオでもSNSでも、そういう声に触れるたびに、僕の中の何かもざわっとするのは正直、ある。それでも根っこのところは不思議と静かなままで、なんでかなぁ、とずっと考えていたのですが、もっちゃんとの雑談のなかで、答えがすとんと腹に落ちました。
ワタクシ、「最悪、魚取って生きるわ」と心の底から思える土台が、自分の中にあるんだと思う。
AIも、ある種の「災害」だ
48年生きてきて、逗子の山と海のそばで暮らし、子どもらとブルーシートで家を建て、サーフィンで波と遊び、春には山で「のぐそ」をかます小学生たちに勝手に胸を熱くしてきました。我が家の屋根にはソーラーパネルが乗っかっていて、ポータブル電源が普段からゆるく動いている。これは別に意識高い系の自然派アピールではなくて、ある種の防災意識なのであります。
台風や地震だけが災害じゃない。AIも、世界情勢も、僕にとっては大きな「災害」のひとつ。完全に巻き込まれないのは無理だけど、飲み込まれないように、家と、家族と、小さなコミュニティを、普段からせっせと温めておく。屋根の上のパネル一枚は、AGIへの僕なりのささやかなカウンターなのです。
AIに乗っかるには、AIから遠い領域を耕しておく
その小さな自立のスペースを抱えていると、不思議なことに、AIに対しても肩肘張らずに向き合えるんですよね。
「使わないと置いていかれるよ」でもなく、「危険だから触らない」でもなく、ただ、「お、面白いやつが来たな、一緒に遊ぼうぜ」とだけ言える。10万円かけてAIロボット「がくこま」を作って、なんの役にも立たないと笑える、あの余白はきっとここから生まれている気がするのです。
逆に言うとですね。AIにガンガン乗っかって遊ぶためには、AIから一番遠い領域こそ、ちゃんと耕しておく必要があるんじゃないかと近ごろ強く思うのです。海に潜ること、子どもと竹を切りに山へ入って弓矢を作ること、酔うたびに義父が語ってくれた話、48歳の誕生日に息子に腕相撲であっけなく沈められた瞬間。糸のように受け継がれてきた、これらの「営み」たち。
データに還元できず、量産できず、ただそこにあるしかないもの。原始の生命から猿を経て、数十億年つづいてきたこのバトンの中には、AIはまだ入ってこられない。少なくとも、当分の間は。
タイパとタイメ、両方握って未来をいく
だから、AIをガリガリ触る毎日と、山と海と家族の時間を温める毎日は、僕の中で完全にセットなのであります。タイパでぎゅっと圧縮すべき場所と、徹底的に「タイメ」(時間を溶かす)すべき場所。両方握っているから、AIをただの便利ツールではなく、新しい遊び道具として愛でていられる。
「最悪、魚取って生きるわ」と笑える土台があるからこそ、僕は前のめりに、楽しげに、未来に向けて手を動かしていられる。
AIの時代だからこそ、足元の山と、海と、家族を、もうちょっと丁寧に温めなおす。それが、ワタクシのいちばん推している「未来戦略」であります。
すでに登録済みの方は こちら