「遊んであげる」なんて言えるわけない。
「遊んであげる」。「遊ばせる」。ワタクシはこれらの言葉が好きでありません。(大人が)遊んであげる。(大人が)遊ばせる。大人と子どもの間に横たわる上下の権力構造が無意識ににじみ出ている(と、私は感じます)。そこはかとなく感じさせる、大人側の上から目線が私は気になって仕方ありませぬ。
「遊ぶ」ことはそんな風に安っぽく差し出されるものではなく、完全に自発的で衝動的な営みなのだと考えております。
つい先日のこと。原っぱ大学 千葉 佐倉の森のフィールドに1歳児を連れたファミリーがやってきました。この1歳男子、ハイハイ全盛期でして、とにかくどこでも歩き回る。あっちもハイハイ、こっちもハイハイ。超高速で、無軌道に、動き回る。障害物があっても果敢に挑む。ときに突然動かなくなって座る。誰の目線も気にせずに、衝動の赴くままに、彼が動かす手足の自信に満ち溢れた、躊躇のない力強い様にえらく感動しました。
あまりにエネルギー溢れるその後ろ姿に動かされ、ワタクシも四つん這いになりまして、彼のあとを見様見真似でついて回りました。でもなんか違った。
彼のほとばしるエネルギーを45歳のワタクシは出せませんでした…。内側からの衝動に従って動き、世界と接する彼の在り方に「遊ぶ」の極地を私は感じました。「遊んであげる」や「遊ばせる」なんてワタクシたち大人は到底言えません・・・。
さて、前回の記事で私たちHARAPPA株式会社の行動指針、「余のある世を愉快に生きる6つの眼差し」について触れました。その1つ目が前回、主に取り上げた「不完全」と書いて「オッケー」と読む、でした。
2つ目が「衝動」と書いて「じぶんじしん」と読む、です。
衝動(じぶんじしん)のところを引用するとこんな感じです↓
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心の奥底から沸き起こる言葉にならないもの、それが衝動。
衝動は自分の根源的な欲求。
深い願い。
まさしく、自分そのもの。
感情は衝動が引き起こす心の波紋。
衝動にも、感情にも、いいも悪いもない。
感情の渦に飲み込まれることなく、波紋が収まるのを静かに待って。
そのままの自分自身を眺めよう。
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自分たちで書いておいてなんですが、改めてこの一説を読み返してみるとなんだか宗教的に感じられてしまいます。でも、きっとそんな崇高なものではなくて。あの1歳児の日常と私たち大人の日常を冷静に見据えたときに見えてくる世界なのだと思う。
私たちは彼のように自分たちの根源的な深い欲求に従って動けているだろうか。そもそもそんな衝動を自分がもっていることを認識しているだろうか。
あるいはもしかして、あえて自分の衝動を抑え込んで蓋をしてしまっていないだろうか。あるいはもしかして、自分の根源的な欲求をダメなもの・不要なもの・汚いものなどとジャッジしてみて見ぬふりをしていないだろうか。
そして、日々沸き起こる感情の渦に巻かれて溺れかけていないだろうか。
そんな自分自身をダメな自分、イケてない自分と裁いて苦しんでいないだろうか。
「衝動」は生きるエネルギーそのもの(だと思う)。
よいも悪いもなくて、私たちの存在そのものとしてそこに「ある」もの。そこにあるエネルギーをそのまんまに受け入れてそのまんまに味わえたらなと思います。なかなか難しいけれども。
そしてこれは常々、自分に言い聞かせていること(そして往々にして失敗することが多いこと)ですが…。「感情」と「衝動」を見誤らないこと。感情に支配されないこと。
怒り、不安、恐れ…。これら沸き起こる感情こそがじぶんじしんの真実だと信じて、支配されて、自分や他者へ向けて感情をぶつけること。あるいはそんな感情が湧き起こる自分自身をジャッジして自己嫌悪すること。
悲しいかな、ワタクシの日常もそんな日々でございますが、願わくばそんな風に感情に支配されるのではなく、感情の波紋が収まるのを静かに待って、その奥にある自分自身の深い願いに思いを馳せたいものです。
あの1歳児のように、自分の衝動そのものと共に生きられたら、と思うのであります。そんな風に衝動に従って「遊ぶ」ことがどれだけ尊いことか。
そんなわけで「遊んであげる」なんて言えるわけない、と思うのであります。
※でも私は決して子どもは純粋で尊くて大人は汚れている、といった「子ども礼賛」をしたいわけではありません。感情と向き合いながらあれこれ失敗しながら日々あがく不格好な大人たちも美しいわけで。余の眼差しのひとつめ、「不完全でオッケー」に立ち返っていくのであります。長くなりそうなので本日はこの辺にて。
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