さようなら、ダメな自分マトリョーシカ
こんにちは。原っぱ大学 ガクチョー塚越です。
前回の記事で私たちの事業ミッション「余を復権しよう」について書きました。
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余白があっても埋めない。余分があっても削らない。余計なことをする。(中略)
時間的、空間的、関係性における「余」。
一見、無駄に見える、無意味に見える、不要に感じる…。そんな時間、空間、関係性を大切にし、積極的に創出します。(後略)
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しかしながら。白状します。何を隠そう、ワタクシ自身、なかなか「余裕」のない毎日を送っております。日中子どもたちと海でロケットを飛ばしたかと思えば夜は山の中で男衆でヨガに興じ、朝に逗子の山の中でチャンバラをしていたかと思えば午後は千葉の山の中にいる…(全部遊びみたいですがどれも仕事です、はい)。その合間に文章を書いたりメールに返信したり、SNSに投稿したり、電話したり。
でもきっとこれがリアルな人生。日々、いろんなことが起こるし、あれもこれもやらにゃならんということに振り回されることだってある。締め切りと納期はいつだって追いかけてくる。後回しにしたツケに追い立てまくられる。
「余を復権しよう」とは理想論なのか。机上の空論なのか。
いいや、そんなことは決してない。結論から書いちゃうと、「余」とは私たちが自分自身を、他者を、世の中を見つめる眼差しに宿るものだと考えているのです。
眼差しって何だ。
私たちは考えました。この私たちの「フィロソフィー」をまとめたページをちょっと下の方にスクロールして「6つの眼差し」というところをご覧あそばせ。
「不完全さ」と書いて「オッケー」と読む。
「衝動」と書いて「じぶんじしん」と読む。
「個々」と書いて「そんちょう」と読む。
「間合い」と書いて「おもいやり」と読む。
「俯瞰」と書いて「せいじゅく」と読む。
「面白がる」と書いて「やさしさ」と読む。
冒頭の「不完全さ」と書いて「オッケー」と読む。この眼差しが「余」がたとえどんなに時間的に忙しくても「余」が生まれる第一歩だと思うのです。
ちょっと引用しますね↓
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私たちは誰もが弱く、もろく、いびつな存在です。
誰もかれも、何もかも不完全。だからこそ共に存存しています。
不完全であることを受け入れること。
不完全な自分、不完全な他者にオッケーを出すこと。
その瞬間から心に余白ができる。
みんなが自分のままで存在できる世界。
オッケーと言葉にしよう。
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そりゃ忙しさにつぶされそうになるときもある。切羽詰まってイライラすることもある。心に黒々としたものが渦巻いて他者を攻撃したくなることもある。
一見、余裕がない自分自身に「オッケー」と声をかけること。無様な理想とかけ離れた自分に対しても「オッケーだよ」と言う。この瞬間、たぶん世界が変わる。自分にオッケーを出せれば他者にも、世界にもオッケーを出せるから。お互い不完全だよね。不完全でオッケー、そこからどうする?というスタート地点に立てるから。
でもこういうことを言うとこんな反応が返ってくることがあります。「私は自分にそんな簡単にオッケーなんて出せない…、だから私はダメなんだ」
そうしたらば、オッケーが出せなくてダメな自分に、オッケーを出したらいい。
その人はまた言います。「オッケーが出せなくてダメな自分にオッケーなんて出せない。だから私はダメなんだ」
そうしたらば、オッケーが出せなくてダメな自分にオッケーを出せないダメな自分にオッケーを出したらいい。
その人はまた言います「・・・」。以下、無限ループ。
ダメな自分マトリョーシカ。
「正解」とか「正しさ」とか「こうあるべき」とか。そういうものと照らして今の自分を測ろうとすると、このダメな自分マトリョーシカにはまってしまうのだと思います。そこには常にギャップがあるから。ギャップに絶望し、つぶされるから。いつまでもどこまでも、正しさとの差分でオッケーを出せない。そしてその差分は埋まらない。
「自分自身の不完全さにオッケーを出す」ということは、イライラする小さな自分も正解を希求する自分も、そんな自分に嫌気がさす自分も、そういうブレて矛盾して一貫性のない自分自身にまるっとオッケーを出すということだと思います。
自己否定バンザイ。自己矛盾バンザイ。
昨日の自分と今日の自分と言ってることが違ってオッケー。さっき考えていたことと今やっていることが矛盾してオッケー。人には言えない真っ黒な感情が胸の中にあってオッケー。自分の欲望にあっという間に負けちゃう自制心のない自分がいてオッケー。
「余の復権」とか言いながら、忙しさにつぶれそうになって顔が引きつりながら働いているワタクシがいて、オッケーなのであります。
そしてそんな自分にオッケーを出せないときがあってもオッケー。
不完全な自分自身にオッケー、と声をかけること。かけようと意識すること。これでいいのだと思うこと。
それがきっと他者との関係(子どもや、配偶者や、上司や、部下や…)に余が生まれる第一歩だと思うのであります。
「オッケーを出すべきである」というべき論ではなく、自分自身と他者と世界へのエールとして「オッケー」から始める。始めたい。そんな思いであります。
まあ私自身、オッケーと言いきれない毎日でありますが。それでも・・・、オッケー。
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