働くことは楽しむべきこと、なのか?

前週のメルマガで「働くことはしんどいこと、なのか?」という記事を書いたところ思いがけず反応をたくさん頂いたので、そこで受け取った問題意識を元に続きを書いてみます。前回と矛盾する部分が出てくるかもしれませんが、まあ思考はそんな風に揺らぐものだと受け取っていただければ幸いです。
塚越暁 2024.01.23
誰でも

前週のメルマガで「働くことはしんどいこと、なのか?」という記事を書いたところ思いがけず反応をたくさん頂いたので、そこで受け取った問題意識を元に続きを書いてみます。前回と矛盾する部分が出てくるかもしれませんが、まあ思考はそんな風に揺らぐものだと受け取っていただければ幸いです。

頂いた反応で多かったのは「仕事を楽しむべき」とか「仕事は楽しいものだ」という風潮がかつて(10年~20年ほど前?)随分と強くあって、それによって苦しめられた自分がいた、というもの。楽しむべきなのに楽しくない、むしろつらい。楽しくないとダメなの!?と。仕事は仕事として割り切ってやったらいいんじゃないの、と。

ちなみに今の20代は仕事は仕事と割り切ってやる方が比較的多いらしいです。←手元にデータがあるわけじゃないし、直接の自分の体感としてそういう事例を知っているわけではないので20代、30代の皆さん、間違っていたらごめんなさい(そして、『今の20代』とかいって世代で括って表現しているのになんだかちょっと罪悪感を感じる…。表現が乏しくてごめんなさい)。20代の皆さん、いかがでしょう!?

そういえば、最近あまり聞かない気がするけど、「好きを仕事に」という言葉も似たニュアンスなのかなと思いました。かく言う私も「好きを仕事にできていいですね」といった声をかけられることが時々あります。これは結構、違和感を感じるんですよね…。結果として好きなことが仕事になっているけど、「好きを仕事に」と意識して選んだわけではないし、お気楽に見えるかもだけど、しんどいことだらけでございますよ…、なんて心の声が溢れてきます。

そんなわけで「働くことは楽しむべき」とか「好きを仕事にすると幸せ」とかいう言葉はなんだかちょっと表層的で違うんだろうな、と私は思います。毎日、「うぇーい、楽しいぜー」って仕事だったらそりゃいいけど、現実はそんなに生易しくはないと能天気な僕だって思います。

では、前回の記事で書いた「働くことのしんどさ」の根源は何だろう、と考えていくとひとつたどり着くのが「意味や意義の喪失」なのかなと。何のために自分がこの仕事をやっているのか、どこを目指していくのか、自分がやる必要があるのか、そんな「意味や意義」を失うと働くことは不毛になるだろうなと…。ちなみに10年前に私が会社員を辞めた理由はまさに、意味の喪失が理由だったなぁ、と思います。

「働くことの意味」という話をしていると、あの有名な寓話が思い出されます↓

3人のレンガ職人が働いてました。「何をやっているの?」と3人に聞くと、一人目は「レンガ」を積んでいるんだと答えて、二人目は「壁を作っているんだ」と答えて、三人目は「歴史に残る大聖堂を建てているんだ」って答えた、みたいな話。

三人目がより遠い未来をみて、自分の仕事に意義を感じているからより良い仕事をしました、みたいな話だったと思います(うろ覚え)。ある意味、真実だなと思いつつ、この前、友人と話をしていたときに一人目の職人の在り方も幸せだと思う、という話になりました。意味や意義など考えず、目の前のひとつひとつのレンガに向き合って積み上げる。シンプルに自分のやるべきことをやる。その目の前の仕事にこだわる。真摯に向き合う。なんかいいな。

と、ここまで考えると「意義、意味」も大事だけどもっと大切なのは「自己決定」なのかもしれないな、と思い至りました。その仕事は自分が決めて、納得して引き受けている。自分がやるべきことなのだ、という納得感。「こんなはずじゃなかったんだけどな…」と思いながら必死に働くのはやっぱりしんどいけど、納得感をもって「これは私の仕事だ」と思って働くのは悪くない気がします。そして、私自身もその納得感があるかどうかは常に大切にしてきたと思います(そうは言っても逃げ出したくなることは何度もありましたし、気持ち的に逃げ出したことも何度もあります)。

ふむ。自己決定しっくりくるかも。なんて思っていたのですが、こんなコメントをいただいてさらにむむむ、となってしまった次第です↓

自己決定権って、自分が「持つ」ものではなくて、周囲の環境に「与えられるもの」であると思うので、最終的には「持ちつ持たれつ」に収束するような気もしています。なんでも自分の意識や意志に回帰させようとする現代社会、苦しいよなー。

たーしーかーーにーーー。「なんでも自分の意識や意志に回帰させようとする現代社会は苦しい」ってほんとそのとおりね。「仕事は楽しむべき」という言葉の苦しさは自分の意志の力でで仕事を「楽しくしろ!」「楽しくできるよね?」「え、楽しくできないの!?」という圧になるのかなと。

ここで思い至ったのが、最近読んでいる心理学者の河合隼雄さんの日本人の文化的背景と無意識について書かれた本です(『ユング心理学と仏教』)。その中で、河合さんは現代の日本人にも古来からの仏教的バックグラウンドが無意識下に流れていて、それが西洋社会のそれとはまるで違う、とご本人の海外での活動の経験から書かれています。

私の理解ですと…。

西洋:キリスト教の伝統→近代合理主義の流れで、個人の中にひとつの核となる「自己」が存在する、そこがすべての考えの出発点になっている。自己を磨き、自己が救済されれば天の国に行ける、ということで常に自己が出発点。

日本:仏教の考え方が私たちのベースになっていて…。自己の中心は「空(くう)」なんですって。何もない。その何もない自己は他者の存在(それは人間だけじゃなくて、他の生き物や無生物も含めた全存在)との関係性の中で規定されて、結果として自己が浮かび上がる。自己は他者との関係性の中で立ち上がる(この考えを『縁起』っていうのだと思う)。

私たち、西洋的な発想の社会で生きているけど、根本の無意識な部分には千年以上受け継いできた「日本的な」考え方が流れている、というのが河合さんの指摘だと私は理解しています。

↑の指摘の「持ちつ持たれつ」の考え方はまさにこの感覚なのだろうなと。

「自己決定」ができることがしんどくない仕事をするうえで多分大切なのだけど、それは他者と切り離された「個」の存在としての「自己」ではなくて、他者との関係性のなかで浮かび上がってくる「自己」が決めたこと、決めさせてもらえたこと。そんなぼんやりとした「自己」の決定なのかもしれません。そして、そんな風に「自己」を開放的にとらえると、なんだか気が楽になりません?

このことがすとん、と腹落ちしたら仕事は気持ちいいものなのかもしれません。他者との関係性に生かされている私たち。まあでも、もしかしてこれは「悟り」の境地という話かもしれず、そう簡単なことじゃないのかもしれませぬが…。合掌。

かく言う私も、仕事人生を振り返ってみたときに「自己」にとらわれすぎているときはしんどい気がします。俺の責任で、俺がやらなきゃ、俺のこだわりが大事…。俺、俺、俺。一点突破するにはそんな西洋的な感覚も大切かもしれないけど、持続的なエネルギーには「持ちつ持たれつ」他者との関係性の中で働かされている自己に気づくことが大事なのかな、なんて思う45歳であります。

河合さんがその本の中で強調しているのは西洋的な感覚と東洋的な感覚とどちらが優れているとか、正しいとかいうことはなくて、どちらもある、ただそういうことだそうです。そんなわけで現代社会を生きる私たちは、西洋的な自分と日本的な自分の間でいったりきたり、矛盾を抱えて右往左往しながら一歩一歩前に進んでいくしかなさそうだな、と思い至りました(結論になっていない…)。

ワタクシの仕事現場。確かに、彼らとの関係性において「私」という存在は立ち上がってくる気がします。そんなことを感じやすい現場は大変ありがたいです。

ワタクシの仕事現場。確かに、彼らとの関係性において「私」という存在は立ち上がってくる気がします。そんなことを感じやすい現場は大変ありがたいです。

無料で「原っぱ大学 ガクチョー塚越の「つれづれ通信」」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
零細企業こそAIと協業するのだ宣言。
誰でも
泥に、まみれろ。
誰でも
僕の言葉が行方不明な、今日この頃。
誰でも
正直であろうとすること>個体としての一貫性。
誰でも
大人たちよ、野で遊べ。
誰でも
僕のママチャリのチェーンが切れた。
誰でも
幸せを願う祈りは、時空を超えるのか。
誰でも
非エンジニアの「AI秘書」づくり:「がっこちゃん」誕生秘話