個人の「願い」が企業の論理を変えていく。

ちょっと青臭いタイトルですかね。でも、そんな時代が、確実にやってきている。めっちゃ希望を感じているのであります。そんなことを考えた2025年末の記録です。
塚越暁 2025.12.16
誰でも

ちょっと青臭いタイトルですかね。でも、そんな時代が、確実にやってきている。めっちゃ希望を感じているのであります。そんなことを考えた2025年末の記録です。

個人の「大切なもの」と組織の「重要事項」の断絶

ワタクシ、ごく小さな個人の会社をやっております。

個人の会社というのは基本、自己責任。自分が信じることに全力ベットするし、やりたくないことはやらないのであります。ロジックで説明できなくても、自分の直観と信念に従って動くのが行動原理なのです。

一方で大きな組織というものはそんなシンプルではない。私も大企業に属していたことがあるので、大きな組織なりの思考回路というのをよく知っています。そこでは個人の信念を超えたロジックが重要。

目的がクリアか、目標が数値化できるか、利益がでるか、論理的に破綻していないか。顔の見える個人としての「思い」を超えて、誰もに理解可能・判断可能な形で指標化・共通言語化されないと物事が進まない。

仕事とは当然そういうものだ、という考えもあるでしょう。

ただ、私が自分の仕事で大切にしていることはそうした客観的な指標・共通言語に乗りづらいことばかりです。

例えば個人の「好き」への没頭だったり、一人の人間の内側のエネルギーの爆発だったり、人と人との気持ちのいい関係性だったり、人と自然とのつながりだったり…。顔の見える人間ひとりひとりの、心と身体の「喜び」や「願い」を扱っています。

目には見えないし、感覚的だし、個人の主観に依存するものばかりです。

これらの「喜び」や「願い」はいち個人としては共感していただけることが多いです。

ただ一方で、大きな組織で事業テーマとして扱おうとすると、「そういうの大事だよね、でも…(うちの会社ではそれは稟議を通りません)」という反応がこれまで大多数でした。

確かに個人の「喜び」や「願い」は大切かも。
でも、数値化が難しい。
数値化できないものはは目標として追えない。
追えないものは事業では扱えない。
以上。

個人の感覚としての「大切なもの」と組織としての「重要事項」の断絶。

これはもう構造的な問題でどうしようもない、という諦めが長年ありました。しかし、時代が変わりつつある兆しを感じる機会が増えてきました。

鉄道三社が共催「Nature Days Project」で感じた希望

先日、とあるイベントに登壇しました。

小田急、京王、京急、という電鉄3社が共催する「Nature Days Project」の初回イベント。この場はまさに「時代の変化の兆し」を感じられる場でした。

イベントの副題が「となりの自然と、暮らしていこう」。

首都圏の主要な鉄道三社が「街づくり」や「都市開発」ではなくて「身近な自然」というテーマで合同イベントを企画しているということだけで、私からすると驚き。

さらに驚きだったのが、その「自然」をいかに換金していくか(観光やインバウンドで儲けるか)という裏テーマのようなものが透けて見えなかったこと。

経済はもちろん大事ということは前提にしつつ…。

 ・地域に暮らす人の文化といかに共存するか
 ・経済合理性と自然本来の魅力をいかにバランスするか
 ・地域のプレイヤーと大企業である鉄道会社の連携はどうあるべきか

といった簡単には答えが出ない「問い」を地域プレイヤーと鉄道3社の中の人たちと多様なバックグラウンドの参加者たちとが議論・意見交換する場でした。

私が、感動し、静かに希望を感じたのはこれら難しくも大きな問いにを立場の違いを超えて、その場にいた誰もが当事者として考えていたことです(そう私は感じました)。

一人の参加者が投げかけました。

「大きな企業と仕事をすると、ある担当と握っていい感じで事業を進めていても、その担当者が異動してしまうと、その事業に通った血肉が途切れてしまう。事業が止まってしまう。」

それに対して大企業側である鉄道会社のメンバーが答えました。

「その課題は我々もすごく感じている。だからこそ、一人の担当に依存しないで、共通言語を作って担当が変わっても事業が守られていく文化を作っていくチャレンジをしたい。」

実際、この3社のNature Days Projectは立ちあげ時とメンバーが入れ替わっているようです。それでもここまで骨太な場が立ち現れていた。わかりやすい「答え」に飛びつくのでなく、皆で問いに向き合っていこうという覚悟が受け継がれている。個人の思いが3社の中できちんと継承されているという証拠。

地域の生態系として「迂回する経済」を共につくる

パネラーの一人として参加されていた「〈迂回する経済〉の都市論: 都市の主役の逆転から生まれるパブリックライフ」の著者の吉江俊さんが、「直線的な経済」と「迂回する経済」のお話をしてくださいました。

「直線的な経済」は文字通り、最短ルートで効率よく最大利益を求める経済。
「迂回する経済」は回り道をする経済。短期的には経済合理性が薄いようにみえて、時間をかけて価値を育んでいくと結果として地域や企業の利益につながるあり方。

「直線的な経済」のスピード感と効率性を否定せずに、「迂回する経済」の生態系を地域に育んでいこう。生態系なので、鉄道会社のような大企業にも、私たちのような地域の小規模プレイヤーにも果たすべき役割があるよね、というお話しでした。もう、頷くしかない。

その文脈の中で吉江さんが以下の様なお話をされていたのが印象的でした。

この文脈だと「資本主義」が批判されたりするけど、「資本主義」が悪いわけではない。

これまで私たちは資本主義=経済資本という単一指標しかもっていなかったけど、資本にはいろいろある。人的資本、自然資本、関係性資本、文化資本…。さまざまな資本に目を向け、時間をかけて育んでいくことを、立場を超えて行っていくことが大切だ、と。

短期利益に直結しない「価値」を育む、という挑戦

関わる企業にとって、地域に暮らす人々にとって、また地域の自然にとっても価値あることをともに追求したい。そんな思いを持っている人が立場を超えてたくさんいることを感じられた。そしてそれはおそらく大企業だけでも、地域のプレイヤーだけでも実現できない。

しかも、その「価値」は分かり易いKPIがなかなか設定できない。短期利益に直結すると合理的に説明しきれない。だけど、だからこそ、そこが難しさの根源だということも共通認識が生まれつつある。

その難しいテーマに、企業の規模や根差す地域を超えて時間をかけてチャレンジをしていこうぜ、という空気があふれ出している。そんな新しい時代の流れみたいなものが着実に生まれつつある。

希望しかないぜ。

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