「なんとかなるさ」を卒業いたします。

最近、新しい気付きがいろいろありまして。ただ、自分の中でまるで言語化が出来ていないちょっとふわりとしたものなんです。この場を使って言語化にトライさせてください。どこに着地するか分からないのですが、思索のプロセスを一緒に味わってくださったら幸いです。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2024.07.09
誰でも

最近、新しい気付きがありまして。ただ、自分の中でまるで言語化が出来ていないちょっとふわりとしたものなんです。この場を使って言語化にトライさせてください。どこに着地するか分からないのですが、思索のプロセスを一緒に味わってくださったら幸いです。

どうやらワタクシ、生来の楽観主義者のようです。基本的に人生「なんとかなる」と思っている節があります。長い目で心に素直に、誠実に生きて行けばなるようになって、いいところに収まる、と。そんな「なんとかなるさ」信仰に割と、盲目的に従ってきた節があるな、と今となっては思います。そんな楽観主義が私の様々な選択を支え、ときにリスクをリスクとして意識せずに前へ進むきっかけを与えてくれていたようです。

一方で、「なんとかなるさ」主義者の弊害として、改めて思うのは、リスクを適正に認識しない。なんとかならなそうな状況が来たときにあたふたして、心の穴に入って嵐が過ぎるのを待つ、何とかならなそうな状況を見て見ぬふりをする…誰かが助けてくれるのをただ待つ、などなど。まあ、退避行動でやり過ごす癖がつくのでありますな(大人としてそれはどうなんだ、という突っ込みは甘んじて受けましょうぞ)。

ワタクシ、こちらのメルマガでここ2カ月ぐらい「ハードモード」だと書いているのですが…。この「ハードモード」により私の「なんとかなるさ」主義がどうやら破綻した模様であります。

「なんとかなる」の楽観と、やばそうになったら「目をつむって避難してやり過ごす」。まあつまり、これまでの人生、問題を見過ごしてやり過ごしてきたわけです(やはり、大人としてそれは一体どうなんだ、、、という突っ込みは甘んじて受けます、はい)。

ただ今回ばかりはどうにもこうにもそれではやり過ごすことができない状況に至ったのであります。そこまでいったときに、究極、お前はどうしたいのだ?という問いが立ち上がってきました。もっと前にこの問いが立ち上がればいいのだろうけど、私はそのときでした。

「なんとかなるじゃねーよ。なんとかするんだろ」

と自分の中の奥の方から、言葉が湧き上がってきました。

あまりにもシンプルだし、あまりにも当たり前なようで。この些細な感覚の違いをうまく表現できずにもどかしいのですが…。無理やり表面的に決心した、というのとは違う感じ。誰かに言わされたののでもなくて、内側から「なんとかする」という言葉が湧いてくる感覚。

集中力?力強さ?ちょっとよくわからないのだけど。

あ、あれです。THE BLUE HEARTSの「情熱の薔薇」です。

答えはきっと奥の方
心のずっと奥の方
涙はそこからやってくる
心のずっと奥の方
情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう
THE BLUE HEARTS 「情熱の薔薇」

で、もちろん、そんなこと言っても、不安に潰されそうになる朝もあるし、凹む連絡が入ってめげそうになることは日々あり続けるのであります(むしろ、そんな状況が激化している)。でも、そういう自分の周囲がジェットコースターのように動き、状況としては相変わらず厳しいのだけど…。それでもなんとかする、とハラでとらえている感覚。

ハラの底に立ち返る場所があるといいましょうか。状況としては大変なのだけど、進もうとしている感じ。そしてそれを自分が選択した、という感覚。あ、これが大きな違いなのかもしれません。「なんとかなる」は受け身。どんぶらこと運命に流されている感覚。「なんとかする」はそんな流れの中でも自分で決めて選択して進める、という意思がそこにある感じ。

半年ぐらい前にこんな記事を書きました↓
どうやら、実は、世界は優しいらしい。

世界が怖い場所だと思い込み、この人は信じられないと思いこみ、他者と自分の間にラインを引いて切り離れる選択をしていたのは自分自身。実は、世界が優しいと実感をもって知り、他者を信じて、優しい世界を味わう選択をするのも自分自身。
自分が作る世界は自分で選ぶことができるんだ。
そんなことを実感をもって感じたのです。

この気づきは本物だったと思うのだけど、でもそのときは、おそるおそる感じた事を書いていた気がします。世界は優しいよ、怖くないよ、怖くないよ、大丈夫だよーと。自分に言い聞かせながら。本当は怖いと思っているけど、自分に言い聞かせている感じ。

でも今、「なんとかする」と決めてから改めて思うのは…。敵なんていないんだ、ということ。「敵」みたいなものは私が怖いから自分の中で勝手に作り出す虚像でしかないんだと。周囲にいるひとりひとりは誰も別に攻撃なんかしてこない。自分が誰かが困っていたら支え、サポートしたいと思うように周囲の人たちも、そう思ってお互いに「より良き」に向かっているんだ。だから助けてって言うことは自然なことだし、そうやってときに助けていただき、ときに自分が助けて差し上げ、世の中は回っているんだ。

まさに、無敵。おお、無敵ってそういうことかー!

「なんとかする」と決めると、自分が今、できないことが見えてくる(気がする)。自分ができないことは誰かに助けてもらうしかない。でも誰かに助けてもらえば「なんとかする」に一歩近づく。すごく、シンプル。

恐怖に支配されて、まわりが敵に見えそうになったときは危険信号。その時は呼吸を整えて、自分のコンディションを整えて、「なんとかするべ」に立ち返る。これが現実世界を生きるってことなんだと思った次第です。

なんか、人生の先輩たち、経営の大先輩方から何度も聞いていたことのような気もします。でも自分では実感をもってわかっていなかったこと。そしてこうして言葉にしてみても、自分の実感の65%ぐらいしか言葉に出来ていない気もするのです。

そんな具合も含めて、ワタクシの現在地をそのままにお伝えしようと思いまして。想定通り着地がふわっとしておりますが…。まあいいや。

ここに「なんとかなるさ」の卒業し、「なんとかするぜ」を生きると宣言します。

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