悲しき「覗き見根性」が教えてくれた、大切なこと。

海水浴場のある町に住んでいると酔っ払いのケンカは割りとよく目にするもの。先日のこと、海の家で仲間とご飯を食べていると20代後半ぐらいのタンクトップを着た体格のいい若者が鉄砲玉みたいな勢いで怒気をはらんで僕らの目の前を通り過ぎ、70代のおじさんに向かって突っ込んでいきました。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2024.08.13
誰でも

海水浴場のある町に住んでいると酔っ払いのケンカは割りとよく目にするもの。先日のこと、海の家で仲間とご飯を食べていると20代後半ぐらいのタンクトップを着た体格のいい若者が鉄砲玉みたいな勢いで怒気をはらんで僕らの目の前を通り過ぎ、70代のおじさんに向かって突っ込んでいきました。

おじさんは仲間の知り合いで、70代後半。白髪ロン毛で真っ黒、上半身裸、余計な肉はナシ。ゴツい指輪やネックレスをじゃらじゃらつけてすごく格好いいのだけど、どう見ても、20代のムキムキに殴られたらひとたまりもない。

これは止めに行かねばならぬやつか、とうろたえながらも、ちょっとだけワクワクして経過を見守っていました。なぜか人のケンカに出くわすとちょっとワクワクしますよね。覗き見根性全開。

ムキムキタンクトップが手を出したらまずいぞ、と思ってみているとさすがに手は出さないけどなんだかすごい怒って顔面をおじさんの5㎝先まで近づけて、まくし立てている。たぶん、ちょっと前になにか不愉快なことがあって、そのことについて怒っている模様。距離があるので内容まで聞こえず。

ムキムキタンクトップの余りの剣幕に、仲裁に誰かが入らねばなりますまい、と思っていたところ、不思議なことが起こりました。タンクトップがどんなに怒ってもおじさんは怒りのオーラも恐れのオーラも出さず。身振り手振り、笑顔を交えてあれこれ話しており…。ものの5分ほどで場の空気がふわっと緩みました。そしてムキムキもなんだか笑顔。二人して笑いあってハイファイブして、軽くハグして何事もなかったかのように別の方向に歩いていきました。

おおお、おじさんは仙人か!?

あまりの華麗な解決っぷりに見とれてしまったのであります。力に対して力で応じず、柔らかい空気で理を説く。誤解があったのかなんだったのか詳細は分からないのですが、相手の空気にのまれずに、むしろ場の空気そのものを変えてしまいました。かっこいいぜ。

話がまるで変るのですが、少し前にMeta社が出したX(旧ツイッター)みたいなSNS、「Threads」を最近ちょくちょく覗いておりまして。Facebook、インスタグラムと同期しているから、タイムラインに紛れてくるんですよね。それで思わず見てしまう。

あたしゃ、ツイッターをほとんどやっていなかったので、匿名のやりとりに慣れていなかったのですが、Threadsのすごいところ(そして乱暴なところ)は、フォローの有無に関係なくアルゴリズムで全然知らない人の投稿がバンバン勝手に流れてくるんです。

で、何となく興味を持って開くと、コメントが罵詈雑言の嵐(私がそういう投稿ばかり見ているからそういうタイムラインになっているのか、Threads自体がそういうものなのかよくわかりません)。

でもですね、ここでも悲しき覗き見根性が自動的に発動。しょーもないコメントの応酬をツラツラと眺めてしまうのであります。「その言い方はないよなー」とか「うわ、ひど、この人は人でなしだな」とか、「なんという非常識な物言いなんだ」とか「言い方はひどいけどまあ言ってることはわかるな」」とかとか、外野の無責任な感想を持ちながらしょーもない罵詈雑言の嵐を興味津々で見続けてしまう私がいるのであります。

この、自分とはまるで関係ない人様の醜態を覗き見したいという、いかんともしがたい習性、覗き見癖は一体、何なんでしょうかね。ワタクシがおじさんになった証でしょうか。芸能週刊誌を買う昭和のおじさんの令和版でしょうか…。

これが人間の本性なのか、ただ私が俗人なだけなのかは不明です。が、罵詈雑言の嵐をの眺めることはどうやらちょっと中毒性があるのは間違いなさそうです。Meta社はさすが、人の心理を存分に研究しているようです。

ちなみに、私は世界中のラグビー好きが集まるSNSグループに入っていて、ときどき覗いているのですが、こちらも、英語でのコメントが罵詈雑言の嵐が日常茶飯事です。世界中の会ったこともない人同士がまあ、ひどい言葉で罵り合ってる。SNSのののしり合いはどうやら人類共通の行動のようです。

そんな風な国内外の罵り合いに、自然と吸い寄せられる悲しき夏の虫がワタクシでございます。そうして眺めているとシンプルな法則に気付くのであります。

この罵詈雑言は、お互いの「正しさ」を乱暴な言葉でぶつけあっているだけ。

それだけ。自分が正しい前提に立ち、その正しさに共感しない相手をバカだとかレベルが低いとか言いながら、自分の主張を無造作に放つ。お互いに相手をバカだと思って、自分の正しさが絶対だと思って言いたいことを放っていたらそりゃ、罵詈雑言の応酬にしかなりませんな。

対して、冒頭の海岸の78歳のおじさんがムキムキタンクトップと対峙したときには、おそらく、正しさのぶつかり合いを避けたのだと思います。相手の言い分も聞き、そこに理解も示し、そのうえで自分の主張もきちんと伝えた(のだと思います、たぶん。想像です)。

正しさのドッチボールからは何も生まれない。

きっとMeta社はそんなことは百も承知で、でもそのドッチボールに、私のように吸い寄せられる悲しき虫たちがたくさんいるから、そういう状況が生まれるツールを作っているんだろうな。そこに人が集って感情の振れ幅が大きくなり、閲覧数が増えるから(だと思います、たぶん。これもワタシの想像です)。そして、私もその、閲覧数を増やしている悲しき人間の一人なのであります。

悲しいかな、「覗き見根性」を断つのはなかなか難しそうですが、「自分の正しさ」にとらわれすぎないようにしたい。それでいて自分がワクワクすること、好なこと、嫌いなことをなるべくクリアに保って、日々を過ごしていければと思う次第です。

夏休みの課題図書的に、先日、知人に勧めていただいた「転落の歴史に何を見るか」齊藤健著を読んでおります。日本が日露戦争の奇跡的な勝利のあと、わずか34年で太平洋戦争開戦という愚行になぜ出てしまったのか、そしてそのときの学びを私たちは活かしきれているのか、ということを現・経済産業大臣の齊藤健氏が書かれた本です。もともとこの本が書かれたのが2002年という一昔前なのも興味深く、読んでいます。まだ途中だけど。

日露戦争から太平洋戦争開戦までの間、ひとつひとつの判断は歴史の流れのなかで、日本の未来を思って考え抜かれて下された「正しかった」ことだったと想像するけれども、時代を経て俯瞰してみるとどうにも「正しい」とは思えない判断の積み重ねだったりします。

「正しさ」は難しい。出来事の渦中で「正しい正しさ」(←よくわからない表現)をつかみ取るのは極めて難しいこと。だからやっぱりその困難さを忘れずに、自分の正しさだけに固執しないようにありたい、と願うのであります。

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