「無理をしない冒険」のススメ。

5月に原っぱ大学をリニューアルしまして。その一環で「おとな学部」を立ち上げ、大人だけで遊ぶ、ということを繰り返しているのですが、これが滅法面白いのであります。仲間たちと回を重ねるごとにキーワードとして立ち上がってきたのが「ほどほどの秘境で、無理しない冒険」という一文であります。この言葉こそ、野遊びの神髄であり、都市生活を営む大人・子どもと私がシェアしたいことのど真ん中だと思うのであります。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2024.07.16
誰でも

5月に原っぱ大学をリニューアルしまして。その一環で「おとな学部」を立ち上げ、大人だけで遊ぶ、ということを繰り返しているのですが、これが滅法面白いのであります。仲間たちと回を重ねるごとにキーワードとして立ち上がってきたのが「ほどほどの秘境で、無理しない冒険」という一文であります。この言葉こそ、野遊びの神髄であり、都市生活を営む大人・子どもと私がシェアしたいことのど真ん中だと思うのであります。

冒険。wikipediaによるとこんな感じです↓

冒険(ぼうけん)とは、日常とかけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くことである。あるいはその体験の中で、稀有な出来事に遭遇することもいう。  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%92%E9%99%BA

思えば私たち、「冒険」を忘れちゃったのかもしれません。もとい、努めて忘れようとしているのかもしれません。

快適さと便利さと清潔さを貴ぶことがあまりにも当たり前になって、「危険」や「汚れ」や「不快さ」は排除すべきリスクとして自分たちの生活の外側に押しやってきた気がします。リスクは排除して最少にするのが正しきこと。特に「コロナ禍」はそんな私たちの思考を加速させたように思います、たぶん。

コロナ禍の反動として「キャンプブーム」が爆発したけど、最近はブームが終焉気味だとか。キャンプと近しい領域で活動している身としては他人事ではないのですが…。私としては、今回のキャンプブームは「自然に触れる」ことばかりに重きを置いて「冒険」のエッセンスが足りなかったから下火になってしまった、と考えるのであります。

かくいう私自身、いわゆる「キャンプ」ってあまり盛り上がらないのです。キャンプ場を予約して、ギアをそろえて、ご飯のメニューを決めて、テント設営して、調理して、寝て、片づけて…。一連の行動の先が読めて予定調和のなかにある。もちろん、自然の中に入ることで気持ちいい感覚は得られるのだけど、「冒険」のエッセンスが限りなくゼロに近い。日常の延長線。正直、ちょっと疲れるのであります。

例えばこれが、「野宿」で、市販のテントは持たずにブルーシート1枚で山の中にシェルターを作って泊る。ご飯は現地調達…。とかだと途端、ものすごくワクワクするのであります。

この違いは何か。「冒険感」なんです。危険に満ちた体験の中に身を置くこと。その体験の中で稀有な出来事に遭遇すること。この冒険のエッセンスが足りなければ、どれだけ自然の中に身を置いてもそれは結局、都市生活の延長でしかなく、いずれ飽きてしまうと思うのであります。

そう、私たち都市生活者は「自然に触れること」も必要だけど、それ以上に「冒険すること」が足りていないのではないか、欲しているのではないかと考えるのです。

こんなことを書くと声が聞こえてきます。

でも、私は経験もスキルもないし。
でも、危ないことは避けたいし。
でも、汚いのは嫌だし。
でも、ルール破って人に迷惑かけたくないし。

その気持ち、わかります。だからいきなりの「大冒険」に出かける必要はないのだと思います。日常のちょっと先にある「未知」の場所に行ってみる。入ったことのない野原や川にちょっと降り立ってみる。初めての海に出かけてみる。未経験の領域に一歩踏み出し、不安や恐れやドキドキを味わうことから「冒険」は始められるのです。無理のない形で。

いいんです、途中で引き返しても。いいんです、ほんの些細な冒険で。いいんです、ギアがそろっていなくても、知識がなくても。そういうことは大した問題じゃなくて、自分の中に小さなチャレンジがあって、ワクワクと恐れが混在する感覚があって、ぎゅーっと集中する感覚が生まれれば。それは紛れもなく「冒険」なんです。そして、私たちはそれを欲しているのです(言い切ります)。

いつも何気なく見下ろす川だって降り立ってみれば立派な冒険フィールドになるのであります。

いつも何気なく見下ろす川だって降り立ってみれば立派な冒険フィールドになるのであります。

なんでそもそも「冒険」に出かける必要があるわけ?そんな声も聞こえてきそうです。

答え。我らのDNAに「冒険心」が刻印されているから(←完全なる推測です。科学的根拠はございません)。でもほんと、思うんです。大人でも子どもでも、ちょっとした非日常の冒険空間にで変えけて、身体ひとつで「危険」と向き合うとなんというか、目覚めるんです。身体と心が開くというか。それはきっと私たちが生き物として、ヒトとして求めていることなのではないか、と思うのです。

この感覚、分かります?分からないというそこのあなた、まずは一度、だまされたと思って遊びに来てください。体感してみるのが一番です。

そう、よくよく考えると子どもたちの日常は「冒険」だらけですよね。知らない場所に出かけたとき、知らない人に出会ったとき、初めての環境に行ったとき。彼らはいつだって冒険の日々を過ごしています。そしてたくさんの経験を重ね、日々成長していくのです。冒険を味わい、冒険から感じ、学ぶことは生命体として基本的な行動なのかもしれません(推測)。

「おお、そうだそうだ、冒険がしたいぜ!」と思われた皆様も。
「いやいや、冒険なんて結構です。家でゆっくりしたいし」と思われた皆様も。

もしよかったら一度、原っぱ大学 おとな学部に遊びに来ませんか。

冒険はしてみたいけど、ネタがない。冒険はしてみたいけど、冒険と無謀の違いが分からない。冒険はしてみたいけど、一人じゃ不安。そりゃそうだ、そんな方こそ、原っぱ大学「おとな学部」へ(完全な営業モードで失礼します)。

三浦半島は「無理しない冒険」にとって最高のフィールドなのです。暮らしと自然が隣接しており、いざとなれば町にすぐに戻れる。それでいてコンパクトなエリアに入り組んだ地形、山、川、海が豊富にある(そしてその多くは、誰も見向きもしない場所≒秘境なのです)。

そんな場所だからこそできる「無理をしない冒険」があるのです。

ワタクシは「冒険家」ではないし、「自然ガイド」でもありません。ただこの地で生まれ育って、野遊びを続けてきたおじさんです。常々、どう遊んだら楽しいかばかり考えています。知識はあまりないから、「教える」ことは得意ではアリマセンが、遊び場を見つけるセンサーはどうやらかなり高いようです。そして全力で、冒険して楽しむことが圧倒的に得意であります。

一緒に遊びたい人、この指とまれ~。

これら写真をご覧あそばせ。どれも三浦半島。東京から1時間と少しのエリアでの活動です。

森戸川の源流。道なき道。

森戸川の源流。道なき道。

三浦半島の先端の無人島。波がはじけるハードな遊び場。

三浦半島の先端の無人島。波がはじけるハードな遊び場。

葉山沖の無人島。魚たっぷりきらきらの海。

葉山沖の無人島。魚たっぷりきらきらの海。

昨日、「おとな学部」の活動で道なき道をかき分け歩いていた一人の参加者が、何かが分泌してギラギラした目をしてこちらを見ていいました。「本能が目覚める感じがします!」

そういうことです。目覚めよ、本能!

「おとな学部」の詳細はこちらより。

近日の開催はこんな感じです↓

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