「最適解」の外側に飛び出せ!
効率的に「最適解」を得る。僕らは当たり前にそれこそが最善と教わってきたし、強さ、正しさだと信じ込んできたけれども。AIの進化の前に今一度、立ち止まって考えるべきタイミングが来ていると思います。
生成AIに聞けば、一瞬で「最適な解」を提示してくれる。判断に迷ったときはA案、B案、C案を提示し、それぞれのメリット・デメリットを提示してくれる(場合によってはそのうえでのオススメの選択まで)。僕らはその選択肢のなかで「良い」と思うことを「自分で選択」すれば、あとはその具体的な進め方を手稲に生成AIが提示してくれる。
そんなAIとのやり取りが当たり前になった世界。2026年2月。
生成AIがない世界を頑張って思い出してみる(たった3年前だけど、思い出すのが大変)。
生成AIがない世界では、「最適解」を見つけるのが今よりずっと大変でした(そういえば)。
自分がなにを決断しようとしているのかまず考える
次に自分にどんな選択肢があるのか調べる、人に聞く
こうして何とか見出した選択肢を吟味し、悩み、考える
えいやと心をきめひとつの選択を選び取る
「最適解」らしきものを見出し、決断するのはかくも大変な作業でした。3年前までは。
そして今、この一連のプロセスの多くを生成AIが代替してくれる。悩みを伝えれば整理をしてくれ、選択肢を提示してくれ、そのうえで論理的・合理的に最適であろう「解」が差し出される。
とても便利だし、アウトプットまでのスピードが上がるし、特に合理性と最適解が求められるビジネスシーンにおいては、生成AIを利用しない選択肢はないように思えます。
ただ、この状況で急激に置きつつある変化で、気になることが2つあります。
①「最適解」の価値が一気に下がっている。
②私たちの日常の選択や行動が「最適解」の中に閉じ込められる。
「最適解」の価値が一気に下がる社会で生きる
まずは①について。
かつては確からしい「最適解」や「正解」をスピーディに提示できる人が強かった。ビジネスシーンでは当然として、「受験」に象徴される教育現場においても。
でもその「最適解」や「正解」は人間よりもはるかに速く、確実に提示できる存在が今、目の前にいます。
いまは生成AIを使いこなしている人とそうでない人のギャップがあるから、そこまでインパクトが無いように感じられるかもしれません。でも、あっという間にそのギャップは埋まると思う。誰もが「最適解」と「正解」を簡単に手にすることができる時代が、もうすぐ来る。
それなのに、僕らはがんばって「最適解」を得る方法を学ぼうとしているし、子どもたちに「正解」を得る方法を教え続けている。今目の前に迫っている新しい社会と、これまでの慣性で実際に動いている社会の大いなるギャップ…。
特に、未来を担う子どもたちへの向き合い方は今のままでいいのかしら、という思いが強くなっています。これから社会に出ていこうとしている我が家の子どもらや、原っぱ大学を通じて知っている子どもたちは本当に大変な過渡期にいるんです(一方でチャンスでもあると思っているけど!)。
はて、新しい世界を生きる子どもたちに私たち大人は何を渡していけばいいのか。私たちは新しい社会の答えを持っていない。まずそこを認めることが大事なのかもしれません。
「最適解」の中に知らずに閉じ込められる
続いて②について。
生成AIが生活に浸透していくにしたがって、私たちは自分にとっての「最適解」にどんどん囲まれるようになっていくと考えています。Chat GPTやGeminiといった生成AIの素晴らしさはそのメモリ機能と最適化力。これまでのその人のやり取りと膨大な世界のデータを踏まえて、その人にとっての「最適な解」を提示してくれる。いくつか選択肢を提示するにしても、その選択肢自体が、その人のフィットする可能性が近い最適な選択肢たち。
そしてその選択肢から私たちは「自ら選ぶ」。このプロセスがあるから私たちは自分が「主体的に選んでいる」感覚をどうしても持ってしまいます。そして、AIに聞く→選ぶという行動の中に自分の選択が閉じ込められていく。
ひとつ例を出しますね。
僕がAIを使って作った自社の管理システム。非常に便利で、もはやそれなしでの業務運用は考えられないです。そのシステムの名前は「Harappa Management Cockpit」。このネーミングはGeminiが提示してくれた案の中から私が「選択」したものです。コンセプトを考えたのは私だし、選択したのも私だからこのアイディアは私のものだ、と思っていました。
でもあるとき、私のAI開発仲間のもっちゃんが言いました。
「『Cockpit』っていうネーミングって最近氾濫しているよね。AIと協働するイメージだと大抵そういう名前になるみたいね。」
はっとしました。私は自分で「考えた」つもりになっていたけれども、そのネーミングは確かにAIからでてきたものです。そして、おそらく、AIは何億もの人の思考パターンを学習したうえで提案してくるから、似たようなコンセプトには似たようなネーミングをつける。そして、似たように処理をする。だから「Cockpit」が氾濫する。
生成AIを使う以上、これは仕方ないことだと思います。これまでの人類の英知にアクセスし、そのなかから成果物をとりだすわけだから「最適解」はどうしても似てくる。
でも、もしその「最適解」のなかに私たちが閉じ込められ続けたら、新しいものはどんどん生まれなくなる。自分と異なる「最適解」をもつ他者への想像力が削られていく。「最適」でないものを選ぶことが難しくなっていく。そしてそのこと自体に私たちは気づきづらくなっていく…。
3歳児のように野で遊ぶことで「最適解」の外側へ
「最適」なんだしそれでもいいんじゃない?無駄がなくなるから…。という考えもあると思います。が、僕はその考えには与しません。
「最適解」に囲まれた生活は退屈で面白くない。最適でクリーンなものに囲まれ続けたとして、その人生は楽しいんだっけ?ワクワクするんだっけ?と私は思います。
で、私が思うのは「最適解」の外側に飛び出すルートを積極的に確保することが超大事。
「最適解」の外側。
それはたぶん、言葉で説明できない世界。身体で感じとる世界。心の内側の衝動に任せる世界。気持ちいいことだけじゃなくて、不快なことや未知への恐れや、どうしようもない失敗や後悔が溢れている世界。A or Bといった形で明確に区分できなくて、AでもありBでもあってAじゃないしBでもない、と混とんとしている世界。
僕にとってそれは野で遊ぶことです。
3歳児のような感覚で遊ぶこと。「最適解」なんて言葉の意味も忘れる世界。
そうそう、先日、原っぱ大学のおとな学部で湯河原の山奥に「滝行」に行ってきました。そのことをきっかけに、我が家の大学生の長男とその友人たちで、自主的に、湯河原まで滝行に行っていました。
真冬の、極寒の滝に打たれる。そこに意味は?目的は?そんなもん、ない。
素晴らしいじゃないか。なんとなくのノリと勢いと楽しそうだというだけでの滝行。まったくもって意味不明で非合理的な行い。素晴らしいじゃないか。これこそ最適解の外側だ。
その積み重ねがより良き人生につながるんじゃないかしら、とワタクシは思うのであります。

あえてトレイルをはずれて道なき道を、崖をあるく原っぱ大学「おとな学部」。全然、「最適」じゃない。だから面白い。
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