「知る」という言葉の奥行きの深さについて。
昨日、とある個展にいってきました。藤田大喜君という原っぱ大学育ちの中学生の個展。Fujitendo Direct ~自分が「知らないこと」を『Direct』に体感~。この個展にものすごく心を揺さぶられ、刺激され「知る」ことについて考えてしまったのでそのお話。
ダンボールで精巧につくられた「過去」のゲーム機たち
個展は4月12日まで有明にある、かえつ有明中・高等学校内のブルームギャラリーというスペースでやっているのでぜひ行ってみてください(詳細は本文の最後に記載します。ちなみに大喜はこの学校の生徒ではないらしく、外部生の個展を自分の学校のギャラリーで開催する、というこの学校の懐の広さに驚きました。そして、実際にすごい学校でびっくりしっぱなしでした)。
個展の展示は小さな空間に「過去」「現在」「未来」とプレートが貼られ、コーナーがつくられています。
「過去」のコーナーにはダンボールで精緻に作られた任天堂のハードゲーム機が並んでいます。ゲームウォッチ、ファミコン、ゲームボーイ、スーファミ、64…。本物を見ぬままに、ネット上で情報を集め再構築して、ミリ単位に原寸大でつくられたゲーム機たち。カセットは取り外しできるし、ボタンは押せる。ただ画面は映らない…(当然)。

手作りで徹底的にリアルに作りこまれているけど、もちろん電源が入らないしゲームはプレーできない…。ダンボールで物を作ることが多い僕からするとこの狂気性(←誉め言葉!)がよくわかります。
原寸大で精工なギミックを作ることがどれだけ大変か…。ダンボールに曲線をつけて立体で成形することがどれだけ難しく、どれだけの試行錯誤を繰り返すことか…。展示は人が触ってもいいとされているのだけど、不特定多数の人が触って壊れないような強度をダンボールで出すのがどれだけ難しいか…。
しかもグルーガンは使わず、ダンボール、ボンド、竹ひごだけでつくられたという作品たち。ボンドのものづくりの大変さを僕は知っています。押さえていないとぺろんとはがれちゃいますもの…。

時間をかけ、身体と心と頭脳に刻み込んで「知る」
「過去」のブースの導入にはこんな言葉がありました。
「過去」というのは、現在を構成するものであり、すなわち過去を理解することは現在世界の背景を知ることであり、その知識は現在を正しく認識することを助けるのであります。昔のゲーム機の再現というのは「過去」にあたるものであり、またより正確に理解するため、寸法をそろえ、一部可動するようになっています。
哲学者の言葉だ。その展示にはゲーム機を通して圧倒的な時間と手間をかけて「過去」に向き合った彼の「知識」なのだと思います(確か、ダンボールゲーム機を作り始めたのが小学校4年生ぐらいだと話していました)。たぶん、大喜君は観察し、手を動かし続けて、40年のゲーム機の歴史を追うことでただ単にゲームの歴史を「知る」以上の過去を「知る」ことができたはずだ、と想像します。
「知る」という言葉の向こう側にこんなにもグラデーションがあるんだ、という驚き。
AIにポンと言葉を投げて答えをパッと得て「知った!」と思うことと、ひたすらに時間をかけて手を動かして積み重ねて頭脳と身体と心に刻み込まれた「知る」こととの大いなる差異よ(「知らないこと」を『Direct』に体感、という個展の副題はまさにですね)。どちらがいいとか悪いとかではないけれども、果たしてこの二つの営みは同じ「知る」という言葉で並べていいのかしら…。
細部まで作りこまれた架空の国「フォングス帝国」
その後、展示は「現在」のコーナーを経て「未来」へ。
「未来」あるいは「未知」というのは、自らの力で変えること、造りだすことができるものであり、一般的に創作活動というのは「未来」あるいは「未知」にあたるものであります。架空国家を作るというのは過去、現在、未来でいうと未来にあたり、また「未来」を鮮明にイメージするために細部まで考え、作り込みました。
この言葉から始まる「未来」のコーナーでは南米大陸、チリ沖に浮かぶ架空の島で歴史を積み重ねた「フォングス帝国」の地図、歴史、軍事資料のコーナー。
これが圧巻なんです。島がどういう地球の脈動で(大陸プレートの衝突で)できあがり、どんな文明が栄えたか。世界の大きな人の動きの中で古代から現代までどんな歴史をたどってきたか。そこには山脈や平原や川や湖や入り江や半島があってその各所に街があって、街にはそれぞれ、歴史的な背景からつけられた名前があって。近隣の文明や他国との衝突や交流があって…。

この地図が最高なんです。
ワタクシ、マニアックな趣味で地図や地形を見ながらその土地でどんな風に人の営みが築かれてきたか、なぜそこに街があるのかなどを想像するのが大好きでして。そんな私の興味から、「なぜここに街が発展したの?」「このエリアはなんか雨が多そうだね」「ここは暮らしやすそう・・」「この大きな町にとっての穀倉地帯はどこになる?」「大陸との交易ルートはどうなっているんだろ?」とかとか、浮かび上がる質問を大喜にぶつけると全部、ひとつひとつ答えが出てくる。
なぜそこに街が発展して、それは世界のどんな出来事に紐づいていて。どんな自然現象や資源があるからその街が栄えたか、あるいは栄えなかったかが出てくる、出てくる。
彼がフォングス帝国について語るとき、時折、その国が彼自身の創作物であることを忘れているように感じました。その国はそこに実際に存在して、その国を調査し、研究する社会学者かのように二人であれこれ話していた時間は僕にとっても最高に幸せな時間でした(気づいたら1時間半があっという間に過ぎていました)。
創作された世界を通して、現実世界の一端を「知る」
そして、もっと知りたいと思いました。この島の人たちはどんな生活を営んでいて、どんな家に住んでいて、なぜ2025年の現代においても帝政を維持しているのか(立憲君主制らしいです)。そしてこの風土の上にどのような交通網を築いて、どのような日常を営んでいるのか。
実在するかどうかは問題ではなくて、そこに紛れもなく「世界」が存在しているんだな。
大喜君は自分で書いていた通り、“鮮明にイメージするため”細部にこだわり続けたのだと思います。そうしたらそこに「世界」が立ち上がった。で、すごくすごく面白いのだけど、彼と話をしている中で僕もリアルな「世界」を感じて「知る」ことができた気がしたのです。
大喜君を通して、彼が生み出したフォングス帝国を通して、「世界」のあり方とか成り立ちをイメージして、ワクワクして、そこに人の営みと風土みたいなものをリアルに感じることができました。そしてそのリアルさを通じて、現実世界の一端を「感じる」ことができた気がするのです。この感覚は…、良質の映画や小説、フィクションの世界に触れたときの感覚に近いのかもしれない。
創作物を通して、その人の視点と、心と、探究心を通して、その向こう側に言葉を超えたリアルさを感じる喜び。世界とつながる喜び…。大喜君は創作は「未来」で「未知」だと言うけれども、その創作物にはその人自身、あるいはその人が存在する「現在」と「過去」の積み重ねの上に立ち現れるもの。だから、「未来」を見ているようで「過去」や「現在」ともつながれるんだなー。
それだ。これも「知る」だ。
AIやネット検索でインスタンスに情報を摂取するのも「知る」。
前半の大喜君の作品群のように手を動かし時間をかけて身体に刻むのも「知る」。
後半の展示から大喜君を通して私が体感したのも「知る」。
「知る」っていろいろだ。言語的な知識として「知る」だけじゃなくて、体感的、感覚的、身体的、非言語で「知る」こともあるんだよなー。ひとつの言葉の意味の奥行に震えました。そして、そんな僕が知らなかった、「知ること」の奥行について、Directに体感させてくれたこの展示を生み出した藤田大喜君に感謝です。
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【展覧会タイトル】
Fujitendo Direct 〜自分が「知らないこと」を『Direct』に体感〜
【作家】 藤田大喜
【会期】 2025年3月29日(土)〜4月12日(土)9~17時
【トーク&WS&対話イベント】4月5日(土)13~16時
申込みはこちら↓
https://fujitendo.peatix.com/
【会場】
かえつ有明中・高等学校 ブルームギャラリー
※りんかい線 東雲駅より徒歩10分
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