「サンタさん」にまつわるエトセトラ。

クリスマスでございますね。小さいころに、サンタクロースが我が家にやってきていたころのことをふと思い出しましたので、そんな話を書いてみます。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2024.12.24
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クリスマスでございますね。小さいころに、サンタクロースが我が家にやってきていたころのことをふと思い出しましたので、そんな話を書いてみます。

母がカトリック教徒のため、我が家はお正月よりもなによりも、クリスマスをきちんとお祝いする家でした。キリスト教にとって12月25日は何よりも大事な日なのですが、小さな私にはそれが面倒だった記憶がありますが…。それでも「サンタさん」がやってきてくれる12月24日の夜、25日の朝は非常にワクワクするものでした。

小学生になる前の小さなころ、ロボットか何かを頼んでいたはずなのにサッカーボールが届いて非常に残念な思いをした記憶。お願いした通り、組み立て式のロボットの恐竜「ゾイド」が届いて嬉しくて嬉しくて、朝早くから作り始めた記憶。夜中に荷物を置いて去っていく「サンタさん」の影を見た記憶。書きながら思い出してきた小さなころのワクワクの記憶の数々。

小学校中学年ぐらいになると「サンタさん」を巡る思いが複雑になり、甘酸っぱい記憶となっています。クリスマスの時期に友人たちと繰り広げられる「サンタ不在説」と「サンタ実在説」の論争。その論争では大抵、実在説が不利でした(そりゃそうだ)。ワタクシは「実在」だとひそかに思っているのたけど、それを明確に主張すると幼稚なやつと思われそうで立場をあいまいにしていました(世間の空気と自分の信念の狭間で揺れる苦しさの体験…)。

芋づる式にいろんなことを思い出してきました・・・。

実在派の急先鋒だったO君がクリスマス直前に押し入れを探したら隠されたサンタさんからのプレゼントを発見してしまい、不在派に転向した衝撃。それでもしぶとく「サンタさん」の存在を秘かに信じていた私でしたが、当時放映していたアニメ「あんみつ姫」で、子どもたちがサンタを全く信じていない前提で話が進み、最後の最後に実は「いました」というエピソードが流れました。そのエピソードから、このアニメを作っている大人たちは「いないというのが子どもにとっても当たり前の前提なのか!?」と私の信じる心の敗北を突きつけられた気になり、なんだか悲しい思いをしたものです(いまだに憶えているということはよっぽどだったのですね…)。

うちの「サンタさん」は毎年、手紙をつけてくれていたのですが、ある年、学校でローマ字を習ったらその年のサンタさんの手紙がローマ字だったことがありました(え、去年まで日本語だったのに!?)。そしてたしか、また次の年にはなんだか筆跡を誤魔化すために突然、文字がミミズ文字になったのです(しかも、日本語に戻ってました)。

そんな状況証拠が徐々に積み重なり、「サンタさん」はいないのかもしれない、父と母がサンタさんなのかもしれないと思い始めました。それなのにクリスマスの朝、サンタさんからのプレゼントにことさら一緒に驚いてくれる父と母の様に、なんというかある種のもの悲しさを憶えたのを思い出します。「もうサンタさんはいないと言ってくれ!僕は大丈夫だから、この茶番を終わらせよう!」そう思いながらも、自分から「真実」を聞く勇気をもてなかった苦しさ、弱さ。そして、ある年、母は明るく「もう今年はサンタさんはいいわね」と宣言され、なんだかかえってほっとしました。

単純に「プレゼントがもらえる」ということを超えて、信じる喜びと、信じていたものが失われていく悲しさと、両親の優しさと、優しさゆえの「嘘」をつかれている悲しさと、その暖かさと、何だかいろんなものがまぜこぜになったのが私の「サンタさん」体験でした。

だから、親になったとき、自分が「サンタさん」をできるのがただひたすらに嬉しくて、子どもたちが人知を超えた「サンタさん」の存在に驚き、ありがとうという姿をみるのが楽しくて、毎年のように趣向を凝らし、私は「サンタさん」をやってきました。

子どもたちの欲しいものをこっそりヒアリングして、ばれないようにプレゼントを用意して、探しても見つからないように徹底した情報管理のもとプレゼントを隠して保管しました。プレゼントを枕元におくときにはバレないように細心の注意をしておいて。サンタからの手紙は子どもがごくごく小さいころから筆跡が「パパ」だと分からないように工夫を凝らしてミミズ文字で書き続けました。

毎年の子どもの笑顔と、「サンタさんはどこから来るんだろうね、なんでほしいものが分かるんだろうね」なんて興奮しながら話す子どもたちとのやり取りが楽しくて仕方なかったです。だんだん、子どもたちがサンタさんに頼むものがインフレして、高額になっていくのを妻は渋い顔をしていました…。これは両親からのプレゼントではなくて、サンタさんからのプレゼントだから教育的に問題ないのだ、とよくわからないロジックで諭し、とにかく子どもたちがクリスマスの朝に喜ぶ顔を見るのを楽しみに、サンタさんの存在を信じ続けられるように細心の注意を払っていました。

大学生、高校生になった我が子たちのもとにはサンタさんが来なくなって久しいのですが、当時、お互いがどんな気持ちだったかを大きくなった子どもたちと語らうのはとても楽しいよきものです。

そんな中で発覚したのは、割と早い段階で長男は私のアマゾンの購入履歴を見てしまって、その中にサンタさんのプレゼントがあったことに気づいてしまっていたらしいのです…。私の脇の甘さよ…。優しき長男は(あるいはプレゼント欲しさのためか)その後しばらく、サンタさんの存在を信じているように振舞ってくれていました。この事実を彼が大きくなるまで私は知りませんでした。

きっと彼は(私がそうであったように)、サンタさん不在の事実を知りショックを受けたりもしたのでしょう。そして若干の後ろめたさを感じながら、サンタさんを信じているふりを続けたのかもしれません(後ろめたさを感じていたかどうかは確認していないけど)。

「サンタさん」。それぞれの家庭なりの考え方があるだろうし、我が家が世の中でスタンダードなのか、亜流なのかよくわかりません。でもなんかこの、存在するのかしないのか謎の赤いおじさんを信じたり、信じていたものが実は大人たちの優しい「嘘」だとわかって衝撃を受けたり、でもその「嘘」は自分に向けられた愛ゆえのもの、喜ぶ姿を見たいという気持ちから生まれてきたものだといつしか実感したり…。なんかそういう揺れ動きがすごくいいなぁ、と思うのであります。合理的とは程遠い、サンタさんという存在、いいじゃないですか。人生の甘さと酸っぱさを子どもにも大人にも伝えてくれる存在だと思うのです。

今日明日と、クリスマスの前後にはいろんなドラマがあちこちの家庭で繰り広げられるのだろうなと想像して、なんだか温かな気持ちになっております。メリークリスマス。

僕らのフィールドにやってきたグズグズのサンタ。

僕らのフィールドにやってきたグズグズのサンタ。

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