あなたは、人が好きですか?
先日のこと「塚越さんは、人が好きですか?」と、久しぶりに質問をされました。人が交わり、人と人との関わり合いが生まれる場を作っているワタクシですが、この、どストレートな質問に答えるのがなかなか難しいのであります。私は、人が好きなのか?今日はそんな話。
遡りまして20代前半のワタクシ。就職活動の折、集団面接かなんかのシチュエーションで「私は、人が好きなので、御社の〇〇〇という事業に大変興味を持ちました」などと胸を張って面接官に伝えている人によく遭遇しました。そのたびに、若かりし私は「人が好き」ってなんだろう?と思ったり、「人が好き」ってそこまで胸を張れるって嘘じゃね?と切実に思った記憶があります。
白状しますが、ワタクシは「人が好き」の感覚がよくわからなかったのです(たぶん今も分からないです…)。当時の私の感覚として「サーフィンが好き」とか「海が好き」とか「○○というバンドが好き」ということははっきり言えました。あるいは「〇〇さんが好き」ということもはっきり言えるのです。でも「人(一般)が好き」と断定的に言える気がどうにもしなくて、、。うーん、と悩んだ記憶があります。
いや、別に人(一般)が嫌いなわけではない。でも「好き」とことさらに胸を張れるかというとそうでもない。ということでこの質問の回答がよくわからなくなるのであります。
で、いっとき、その曖昧な回答を説明するのが面倒なので「私は人が嫌い」なのだと暫定的に考えることにしました。基本的に「人が嫌い」なのだけど、必要に迫られて人と交わっていると。いやでも、言葉って恐ろしい。「人が嫌い」と言い切ってしまうとなんだかザワザワします。「ピーマンが嫌い」と同等に嫌いなわけではないですもん。一人きりで生きていきたいわけではないですもん。
というわけで「あなたは、人が好きですか?」の問いに対して明確な答えをもたぬままに、46年間、生きてきた次第です。
そうそう、原っぱ大学のような場をやっていると似たような感じで「ガクチョーさんは子どもが好きなんですね」という言葉をよくいただきます。これも困ってしまうのです。ことさらに「子どもが好き」だと思ったこともなく…。そして「私は子どもが好きです」と胸を張って語っている人を見ると「本当にー?」とうがった見方をしてしまうのであります。
ここまで書いて単に私がひねくれているだけな気がしてきましたが…、続けます。
そして先日のこと、唐突にまたこの質問がやってきたのであります。
「塚越さんは、人が好きですか?」
で、やはり明確に自分は「人が好き」だと言い切れずに歯切れが悪くなってしまったのであります。人そのものが好きかどうかは、どうにもやっぱりよくわからない。好きな人もいれば苦手な人もいるし、人と交わりたいときもあれば、そっとしておいてほしい時もある。うーむ。
悩んでいたその時にひとつの答えが、ふとひらめいたのであります。
「人が好きなのかどうかはやっぱりよくわからない。でも人とエネルギーを交換することは大好き、大好物です」
結局、直接的な質問の回答ではないのですが、非常にしっくりくる答えにたどり着いたのであります。そうか、私の好物は「エネルギーの交換」なのか。それが好きだから原っぱ大学の場が自分にとっての居場所であり続けるのか、と一人納得したのであります。
エネルギーの交換、あるいは循環。
非常に感覚的・抽象的な表現なのでうまく言葉にできるか分かりませんが、レッツトライ。
エネルギーってたぶん、目に見えない炎みたいなもので、グワっと燃え上がることもあれば熾火のようにチリチリじわじわ燃え広がることもあるし、優しく暖かく伝播していくこともあるようなのであります。その燃え移っていく感じというか交換していく感じが好きなのであります。
自分の身体と心を通して、人とエネルギーを交換するのが好き。エネルギーを「送る」だけではないし「受け取る」だけでもない。エネルギーというのは、受け取ってまた送ってということをグルグルグルグルしていくとなんだか大きなものになっていく、そんな気がするのであります。
私はフィールドでよく、子どもたちと「戦いごっこ」をやります。「あちょー」とパンチを仕掛けてくる子がいると私も「あちょー」とやり返します。そうすると彼は大抵、「なんちゃらサンダーストライク」みたいな文字通り、エネルギーを貯める必殺技で攻撃を仕掛けてきます。私はその技を喰らって思い切り吹っ飛びます。そしてなんとか立ち上がってこちらも必殺技を繰り出します。「ローリングファイヤーなんちゃら~」。そうすると相手はバリヤーを張って僕の必殺技をはじき返します。そうこうしているうちに周辺の子らも集まってきて戦いの輪が一気に広がっていきます…。
この時に私のなかに「遊んであげている」という感覚はほぼありませぬ。そうやって「ごっこ」に没頭していく中で彼のエネルギーを受け取って、私のエネルギーを打ち返して、そうこうしているうちに他の子のエネルギーも膨らんできて、場全体のエネルギー値が高まってる、そんなことに喜びを感じているんだ、と今改めて思います。
あるいは、大人たちでもそう。例えば大人と一緒に探検に出かけると、「自分がこの崖を登れるかどうか」不安に感じて身体が固まってしまうシーンによく出会います。それはたぶん、身体的にできるかどうかはもちろんだけど、できない自分を他者に見られちゃう「恥」の感覚とか、できないことで遅れてをとって人に迷惑をかけてしまう感覚とかがないまぜになった状況だと思うのです。
そんなときは思い切りその人の背中をおしたり、全力でサポートをして、小さな成功体験を形づくれるように足を支えたり、一歩ができたときに全力で感動を伝えたり、エネルギーが発露しやすい空気を形作ります、自然と。そんななか、一歩踏み出すのはその人自身。その小さなエネルギーの発露が周囲に広がって、それが大きくなって場自体が元気になっていく。そこにいるみんながエネルギーを受け取る。循環が起こる。
こういうことが、ワタクシは大好物なようです。それは「役割」として一方的に私が与えているものではなくて、私もたくさんのエネルギーを受け取っているのです。元気をもらっているのであります。そのときに運営者と参加者という垣根がなくなって、その場にいるひとりひとりがエネルギーに満ち溢れるのであります。
原っぱ大学の場の本質はここにある気がしてきました。大人も子どもも存分にエネルギーを交換し合える場。
このエネルギーの交換、循環、増幅が好き。そして大人も子どもも、誰しもがこのエネルギーをもっており、その気になればいつでも交換、循環、増幅ができると信じております。うん、そんなエネルギー体としての人は、確かに大好きだな。
あれれ、ということは「私は人が好き」なのかしら!?(でもまだちょっと『人が好きです』と胸を張り切れない自分もおります、はい)。
11月の寒空のした、バケツの水をかけあって、エネルギーを交換中。 photo by aya higashida
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