ジコマン礼賛。客観的評価は二の次でよろし。

大学生の長男と話をしていた時に、彼がなにか発言をしたあとに「あ、これはジコマンかもな…」とつぶやいて発言を引っ込めようとしました。ワタクシとしてはもともとの発言そのものよりも、彼のその小さなつぶやきが心に残りました。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2025.01.14
誰でも

大学生の長男と話をしていた時に、彼がなにか発言をしたあとに「あ、これはジコマンかもな…」とつぶやいて発言を引っ込めようとしました。ワタクシとしてはもともとの発言そのものよりも、彼のその小さなつぶやきが心に残りました。

ジコマン=自己満=自己満足。wikipediaで調べてみました↓

  (前略)人間が行動を行った場合に、その行った行動に対して自分自身が満足をするようなもののことを言う。ここで自分自身が満足しているのは、客観的評価に関係なくされているということである。(中略)人間が行為を行う場合に、それが自己満足に終わらないように注意を促されている場合がある。(中略)企業経営においても自己満足というのは非難されている事柄であり、社内において自己満足が蔓延するようなことがあれば、そのことから企業の業績が悪化するということにもなるとのこと。  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E6%BA%80%E8%B6%B3

なんとも示唆に富んだ文章でございますな。

まず先に私が長男のつぶやきから感じたことを表現しますと…。「『じこまん』でいいじゃないか。まずは自分が満たされることがすべての起点よね」と思ったのであります。客観的な評価よりも何よりも、第一義的に優先されるのは1人の人間として自分が満たされることじゃないのかしら。そこを軽視しちゃならんでしょ、と思ったのであります。

その「満ちる」行為や「満ちている」状態がどんなに客観的に評価されないもの、価値がないとされるものであっても、本人が満ちて、喜びを感じているのなら何ら、避難される事柄ではないと思うのであります。むしろそうした状態が非難されるとすると、私たちは何のために生きているのかな、と思ったのであります(大げさかしら?)。

でも、上記のwikipediaで書かれていた定義を読み返すと、息子が「あ、これはジコマンかもな…」とつぶやいた裏側の思考がはっきりとわかります。

彼が意識していたかあるいは無意識だったかは分からないけど、「ジコマン=ただ自分の欲求か欲望を満たす行為=客観的評価から離れている=検討の俎上に載せない」となったのだと思うのであります。

彼はすごく真剣に考えて発言をしていたし、まさに今、自分の考え方の基礎を自分で築いている真っ最中だし(そして何よりも彼は毎度、このメルマガを読んでくれているし…)、彼のそのとっさのつぶやきを批判したり、問題視したりするつもりはまるでありません。むしろネタをくれて感謝。

ただ、彼のその一言に、私たちが社会で共有するベースの考え方の縮図が見て取れたのであります(大げさか)。

A or B ではなくて A and Bと考えるのは難しい

このエピソードと関連して、友人と話していたときに「or と and」という話になりました。その方曰く、「私はどうしても or という考え方をしてしまう。Aという選択か、Bという選択か、どちらか選ばなくちゃって」。それに対して、私が感じたのは彼女の選択はA or Bではなくて、A and Bを目指した方がうまくいきそうだよ、ということでした。

これ、私は客観的に彼女の話を聞いていたからアドバイス風に伝えられたのですが、自分でもまあよくあること。どちらかを選ばなくてはいけないと引き裂かれ続けてきたのであります(ワタクシも会社経営では常に、金かビジョンか、みたいな対立に引き裂かれていました。でも、この対立構造のなかで物事をみているうちは何も解決しないと身に染みております…)。

A or Bではなくて、A and B。AかBかではなくて、AもBも。お金かビジョンか、ではなくて経済性もビジョンも。ジコマンか社会的価値か、ではなくて自己を満たしつつ社会的価値も大切にする。

とかく私たちはA and Bは難しい、とみんなで自己暗示をかけてしまっているようです。でもきっと、選択ではなくて両立する方法、というものは存在するはずですし、上のwikipedia的な自己の満足と客観的評価を対立軸におく思考なんてとっとと捨ててしまえ、と思うのでありいます。

「好き」という言葉につきまとう条件

もうひとつ、別の観点から。また別の友人と話していた時のこと。とある「自由な学び」を尊ぶ学校にお子さんを通わせている彼と、こんな話になりました。

その学校では「好きなもの」が明確な子は好きなだけ自分の好きなものにのめりこめる機会があるのだという(素晴らしい!)。一方で、特出した「好きなもの」がない子には苦しい環境となってしまいがちだ、と彼は言いました。

なるほど。彼の言わんとすることは理解できます。虫や電車が好きで好きで仕方ない子はひたすら虫のことを探究できる。でも一方で、特段「好き」がない子はどう時間を使っていいのか分からないし、「好きを見つけろ」という逆のプレッシャーがかかる、という(←あちこちで見かけますね)。

彼の話を聞いてワタクシは冒頭の長男の発言の裏側と同じような作用を感じ取ったのであります。

こうしたシーンで私たちが使う「好き」は割と条件付きの“好き”なんだろうなと。ここでいう好きは恐らくは「虫が好き」「電車が好き」「野球が好き」「工作が好き」「音楽が好き」といったこと…。乱暴に整理すると、あるジャンルに捉えられて、経験を積み上げていくとどこか社会に役立つというか、ひとかどの人物になるような、あるいは客観的にとらえやすい“好き”。つまり、ジコマンではない“好き”。

あ、話がつながった!

ワタクシ、強く思うのであります。「好き」がない子どもなんていない(もっというと『好き』がない大人もいない)ということ。だって私たちは生きているのだから。好き、嫌い、ワクワク、しょんぼり、気持ちいい、気持ち悪い…、という感覚を日々重ね続けているのだから。

ただ、それがジコマンな、社会に役立たない“好き”だと私たちは見ないようにしてしまっているのかもしれない。自分でも気づかないようにしてしまっているのかもしれない。子どもに対してもそんな空気を伝えてしまっているのかもしれない。

でも、当然ながら「好き」はもっと自由であっていいし、「好き」の対象はうまく言語化できなかったり、人に共有できないものであってもいいと思うのですよね。しかもそれが、一貫した持続的なものでなくていいと思うんです。昨日の好きと今日の好きは違っていいし、違って当然だと思う。

子どもの頃のワタクシは、ぼーっと白昼夢を見ているのが好きでした。ガチャガチャのSDガンダムで一人で遊んでいるのが好でした。他愛もない落書が好きでした。大人から見ると客観的にどこにもつながらないけど、私にとってはいまだにそれらの時間は至福の時間として記憶しているし、それでいいんじゃないのかな。

「好き」が見つからないことがプレッシャーになる社会なんて蹴飛ばしてしまえ!ジコマンから始めようではないか。まずは自分を満たそうではないか。まずは、私たち大人から。

※写真はこの週末に実施したオジサンたちのヨガコミュニティ「俺のヨガ」初の合宿の1シーン。おじさんたち18名が集って皆でヨガ合宿を行いました(おそらく日本のヨガ界の歴史に残るであろう場でした)。みてください、この皆さんのヨガのポーズを。決して美しくない。他者からの評価など一切気にせずに大空へ向かって手を伸ばすオジサンたちジコマンの清らかさよ。こういう時間を大切にしたいものです。興味ある方、ぜひ俺のヨガの体験にお越しくださいませ!(詳細・体験募集はリンク先より)

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