いい状態をキープできる、わけがない。

男たちだけで焚火を囲んでヨガをするプログラム「俺のヨガ」の第3期が先日より始まりました。その中で先生である佐藤ゴウさんが伝えてくれたヨガの考え方のひとつが深く印象に残っております。ヨガ哲学においては「同じ状態を保ち続けるのは不自然なこと」であり「いい状態を保てるわけがないんだ」というのです。今日は「変化」について。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2024.04.23
誰でも

男たちだけで焚火を囲んでヨガをするプログラム「俺のヨガ」の第3期が先日より始まりました。その中で先生である佐藤ゴウさんが伝えてくれたヨガの考え方のひとつが深く印象に残っております。ヨガ哲学においては「同じ状態を保ち続けるのは不自然なこと」であり「いい状態を保てるわけがないんだ」というのです。今日は「変化」について。

ゴウさんが伝えてくれたことを私なりに解釈するとこういうことです:

何事も変化しつづけているから。同じ状態でありつづけるのは不自然なこと。つまり、心にしても、身体にしても「いい状態」を保ち続けることはできないということ。いい状態になったな、と思っても次の瞬間には崩れていくもの。もし身体をいい状態に保ち続けられるなら、人間は80歳、90歳で死なないって。もっと生き続けるって(なるほど!)。

良くなったと思ったら崩れてしまうのが自然なこと(たぶん、逆もしかり。悪いところでとどまり続けるということもない、のかな)。だから、その自然なあり方を受け入れるのが第一歩だということだそうです。

だからヨガを続けるんだって。崩れたり変化するのが自然なことで、そうなることを当たり前と受け止めて、そのうえで、毎日ヨガや瞑想をやって自分をチューニングしていく。それがヨガの道だそうな。

なるほどー。新鮮でした。ヨガにしてもなんにしても、とかく、自分がいい状態で「安定する」ことを求めてきたような気がします。固定的にいい状態で居られること(心も身体も)。その状態に達したくて運動をしたり、ヨガをしたり、自己啓発っぽい本を読んだり、そんなことをしてきた気がします。

でも、実感としては結局、崩れるんですよ。心のコンディションも身体のコンディションも。あれ、調子悪いってときが必ず巡ってくる。その時に割と、「ああ、だからダメなんだ…」って思ってしまいがちでした。自分を責めてしまいがちでした。

が、ゴウさんの話を聞いて思ったのは、そもそもボタンを掛け違えていたということですな。崩れるのが当たり前。崩れるものです。そこで凹むことはない。固定化する方が不自然なんだもん。気持ちが軽くなる教えですな。崩れる前提で、変化する前提で、良き状態は保てない前提で、励む。

うむ。ヨガ素晴らしい。(『俺のヨガ』、体験したい方、ご連絡ください!)

そして、思い出したのであります。ワタクシ、趣味で、独学で中国の「易占い」に触れてきました。「易」ってあれです。街角にいる占い師さんがやっているような、棒(筮竹といいます)をじゃらじゃらやって占うやつです。独学なので正しい理解なのか甚だ怪しい部分はあるのですが…、「易」はもともと中国で数千年前に王様が意思決定をするのを支援するツールとして発展したそうです。

そして、その基本的な考え方が「変化」なんですね。中国の強大な自然崇拝から生まれた占いで、自然は季節が巡り必ず変化していく。それは人間の営みも一緒(人も自然の一部だから)。そしてその変化には大きな流れとパターンがあるから、予測できる、という考え方のようです。面白いでしょうー。面白いんです。

易の考え方も、万物は変化し続ける、というのがベースにあります。そしてすごく面白いのが、「いい状態」が極まるとその次には崩れ始める、という考え方があります。逆もしかり。「悪い状態」が極まるといい状態に向かうという。

おお、ヨガと一緒だ。

山で易をやったこともありました。手前はお客様。

山で易をやったこともありました。手前はお客様。

そしてそして、もうひとつ思い出しました。これまたワタクシ、節操なくいろんなものをつまみ食いしているのですが「禅」の教えも似ているんだなと勝手に思っております。禅語の中で好きな言葉に「百尺竿頭進一歩(ひゃくしゃくかんとうしんいっぽ)」というのがあります。

上の話とは少しずれるかもしれないけど…。百尺の竿の先っぽに立ったと思ってもまだ一歩進めるよ、という話です。竿の先に終わりはないよということ。「悟った」とか「上がった」とか「できた」って思うのはおこがましい。終わりや完成はないのですよ、という言葉だと思います(多分)。

ヨガの教えに近いというか、いい状態でキープできると思うなよ、という戒めなのだろうと捉えております。

ということで、「変化」するのも「ゆらぐ」のも当たり前、それが自然なことなのですな。願わくば「良き」方向に変化を続けたいものですが、まあそうもいかないよねと。その当たり前を受け入れることが第一歩でございますね(だいたい、『良い』ってなんだ?って考えだすとよくわからなくなります…)。

非常に納得したのでありますが、ヨガも易も禅も東洋の思想なわけで、西洋ではいったいどのような考え方でとらえているのか、ということに興味が至りました。で、最近は西洋哲学の本をパラパラとめくっております。その中で、竹田青嗣さんという日本の大哲学者が書いているフッサール、ニーチェを解釈してまとめ「共通了解」という考え方が非常に面白く、最近の私の興味のど真ん中であります。が、まだここで書けるほどに自分の言葉で理解しきっていないので、また日を改めて書ければなと思います。

洋の東西を問わず、人類の思考の積み重ねとは、本当に素晴らしいと思う今日この頃であります、はい。

「俺のヨガ」の大切な時間。「サットサンガ」。男衆で焚火を囲んで語らう時間であります。

「俺のヨガ」の大切な時間。「サットサンガ」。男衆で焚火を囲んで語らう時間であります。

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