ドライブ・アワ・カー
先日、好きな映画は何か?と聞かれまして。いろいろありますが、近年、心に深く残っている映画、と言いますと濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」です。人が負った心の深い傷と、それに蓋をして静かに生きる姿と、その救済の物語(と、私は受け取りました)。映画の内容は細かくはここでは語りませぬが、なんだかこの物語が人生の真実をとらえているなと感じて心に残り続けているのであります。
この物語がとてもリアルで美しいなと思うのは、人の心の本当の内側は他者には分からないということ(もっというと自分自身でも分からないということ)が丁寧に描かれていること。そのうえで不完全で不器用な、傷を負ったひとりひとりがなんとか生きていこうとしていること、自分の人生のハンドルを握ろうと静かに、でも必死に、とまどいながらあがいていること。その結果として、何らかのめぐりあわせで物語の登場人物たちがお互いに影響を与え合っている、ということを描いているのだと思います。
数年前にこの映画を見たときは人が負った傷とその再生、というところに心を動かされていたのですが、今、改めて記憶をたぐって振り返ると、特に印象的だなと思うのは「お互いがお互いに影響を与え合っている」ということを淡々と描ききっていることです。
そう、僕たちは意識的に、無意識的にお互いがお互いに影響を与え合っているんだ(いや、当たり前なのだけど…)。
そしてその関係性はひとつの関係性で完結するのでなくて、広がりをもって別の関係性にも影響を与えて、波及しあっている。そんなことをふと思うのであります。
例えば親子関係。親子の関係は育てる夫婦の関係から影響を受けるし、逆に親子の関係が夫婦の関係に影響を与えるし。親の仕事場での関係が夫婦の関係、親子の関係に影響を与えるだろうし、子どもの子ども同士のコミュニティの関係が親子関係に影響を与えているし、親の親と親との関係が親子の関係に影響を与えているだろうし。
望むと望まないとにかかわらず、そして良し悪しに関わらず、関係性の中で生きる私たちは相互に影響されあって、影響しあって今現在のここにいるのだな。
そしてその影響は言葉で語れるものだけでない。意識できるものだけでない。言葉になるもの、ならないもの。意識できるもの、できないもの。善悪や私たちのコントロールや意思を越えて影響を与え合う。そんな関係性の広がりの中で僕らはたぶん、非常に受動的に生かされ続けているのかな、なんてことに思い至るのであります。
なんだかとっても大切なことを書いているようで、何を書いているのかよくわからなくて、ちょっと困っておりますが、今回は思いつくままに書いてみます。
「ドライブ・マイ・カー」という映画はタイトルの通りの映画なんだけど、主人公は自分の車をほとんど運転しないんですよね。別の「ドライバー」にゆだねてる。ゆだねざるを得ない状況に置かれている。
でも、きっと人生はそういうものなんだ、と合点しました。自分の人生のハンドルを握ることは、強引にすべてをコントロールすることではなくて、コントロールできない不完全な自分を受け入れて、関係性の中で生かされている自分を受け入れて、他者にハンドルを預けることなのかもしれない。結果としてその他者は自分の車を前に進めてくれるかもしれないし、また自分はその他者の車を前に進めているのかもしれない。
決して他責にしようとか、主体的に行動することは意味がないとか、そういうことでは決してなくて。でも、自分の意思だけではまかりならないのが私たちの命だと受け入れると、なんだかちょっと楽になるのかもと思うし、そこにリアルがあると思うのであります。
そんな私たちの命だからこそ、自分の人生を、あるいは自分が影響を与えるであろうまわりの一人一人の人生を「前に」進められるように願いを込めてひとりひとりが自分の人生のハンドルを握り続けられたら素敵じゃないかしら。
望むと望まないとに関わらず、私たちは互いに影響し合っているのだから。
レッツ ドライブ アワ カー。
一体何を書いているのかよくわからなくなってきたのですが、今日はそのまんま終わりにします。
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