狩猟採集民としての我ら、再び。
「ガクチョーは狩猟採集民だよね、俺は農耕民族だから」。先日、経営者であり友人のOさんと話しているときに言われました。狩猟採集民はその日暮らし、その日のご縁を喜び、獲物を見つければ飛びつく。眠くなったら寝る。農耕民族は常に計画ありき。計画して、耕して、種をまいて、収穫する。ワタクシも経営者の端くれ、狩猟採集民と呼ばれることは名誉なことなのか微妙であります…。
Oさんは続けました。「僕はアリで、ガクチョーはキリギリス」(これはさらに不名誉な言われようではないか…、まあいいか)。要は、先を見通して計画を立てるのではなく、自身の感度やセンサーに応じて気の赴くままに動いているように見えるそうな。決してそんなことばかりではないですが、どちらかというと「計画」は苦手だし、気の赴くまま、偶発性に委ねることを私が好むことは間違いないのであります。
「現代社会は農耕社会がベースになっているから、『成功』するには農耕民族(アリ)型がいいと思うのだけど、年を重ねて狩猟民族(キリギリス)型の直感や自分の欲求に従う感じがうらやましいと思うようになってきた」とOさんは言います。経営者として誰がどう見ても成功者のOさん、なるほど、人には様々な悩みがあるものです。
たしかに、現代社会を見渡せば農耕民族スタイルが幅を利かせているのであります。ビジネスにしても、学業にしても、計画を立てて目標をおき、PDCAを回し、確実に成果を得ていくことが成功につながるわけです。
農耕民族は環境に働きかけ積極的にコントロールしようと工夫し、最大の恵みを再生産しようと画策する。狩猟採集民は環境に適応し、所与の環境から必要な分だけの恵みをいただけるように動き回る。たぶん。
どっちがいいとか、悪いとかではなくて、人類の進化の歴史のなかで私たちは狩猟採集民としての歴史も、農耕民族の歴史も長いこと積み上げてきていて、それがきっと私たちの身体のなかに、記憶として脈々と流れているのだと想像します。
ちなみに人類の祖先アウストラロピテクスの誕生が400万年だか500万年前だそうで。ホモサピエンスの誕生は諸説あるみたいだけど30万年前ぐらいかな。その中で人類が農耕をはじめたのは1万年前ぐらいですって(日本においては縄文時代の後期か弥生時代かと言われているのでわずか数千年前ってこと)。
我らの祖先は気が遠くなるぐらいながーーーーいこと狩猟採集民をやってきたわけです。農耕をはじめたのなんてついこの間なわけで。さらには工業化社会なんてほんのちょっと前、みたいな話ですよね。詳しくないから正確なことは知らないですが、生き物としての私たちは狩猟採集民の脳みそが色濃く残っているのではなかろうかと思います(推測)。
原っぱ大学に来る子どもたちは、すぐに火をつける。穴を掘る。戦う。生き物を捕まえる。ものを壊す。隠れ家を作る。崖を駆け上る。転がり落ちる。
原っぱ大学を始めて10年。子どもたちの世代が変わり入れ替わっても、ひとりひとりの内側から発せられる行動のひとつひとつに狩猟採集民だった私たちの祖先の日常を感じます。
素朴な何気ない遊びのワンシーンに心の奥底から震えるような喜びがあるわけで。その心の震えの震源地は何かというと、僕らの体内に刻まれて、ご先祖さまから何百万年と受け継がれてきた太古の記憶なのだと思うのです(大げさかしら)。
とかく窮屈な現代社会だからこそ、我らの奥底にねむる狩猟採集民族スピリッツをゆるやかに開放できたらきっと日々がより豊かになるのだと思うのです。
子どもたちは分かりやすく表現してくれるけど、その根源的な欲求に大人も子どもも違いはないと思うんですよね。心の中の狩猟採集民族を解き放つことは大きな喜びに具流のであります。10年以上にわたって数千人の子どもと大人が遊ぶ様を見てきた私が言うのだから間違いありません(えっへん)。
なので皆さん、ぜひ原っぱ大学に遊びに来てくださーい。冬場の焚火は最高に気持ちいいでっせ(←宣伝です)。
先日、鹿児島県霧島市のobama village にて開催したイベントのワンシーン。何ら目的なくただひたすら穴を掘り続ける子どもたち。これぞ狩猟採集民族スピリッツ!わからんけど。
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