「手」がすごい、のかもしれない。
この週末のこと。無印良品さんが運営する新潟県津南町のキャンプ場へ「MUJI CAMP FES2024」でのプログラム提供のために行ってきました。その場で私たちが提供したのは「ノリと即興で廃材からつくる『家づくり』」。
2日間で出来上がったのがこちらの家。みてください、この写真。アートでしょー。
やることはシンプルで。廃材と絵具を大量に揃えて、あとはなんとなく皆で、形をつくっていくだけ。やっていることはただそれだけ。自然と遊びゴコロが発動し、自然と「何か」ができあがっていく。ゴールイメージを共有しているわけじゃないし、そもそもゴールがあるわけじゃないし。それぞれが好き勝手に手を動かし続けると、最終的にこういうなんだかわからないけどなんだか魅力的なものができあがる。
思えば2012年の「子ども原っぱ大学」の設立当初からこんなことばかりやってきました。素材は廃材だったりダンボールだったりいろいろですが。
2013年。森の秘密基地
2014年、巨大ダンボールナゴヤ城
2014年。廃材の家。
2019年。セイシュンラボ。秘密基地。
2023年。みうらの森林のツリーハウス的な何か。
思えば、役に立たない目的の曖昧な構造物を作り続けてきました。
ゴールの合意も、完成イメージのすり合わせも曖昧なままにただひたすら手を動かしていくとどこかにたどりつくような、つかないような。そんなことをやり続けてきました。先日の無印さんのキャンプ場でつくづく思ったのは、ああ、私はこの時間が本当に好きなんだなぁ、ということ。
それは何かというと、自然なエネルギーの発露なのだと思うのです。誰が強制するのでもなく、内側から沸き起こってくる衝動的ななにかに、ひとりひとりが楽し気に委ねて手を動かし続けているということ。誰も誰かを否定しない。どこにも失敗がない。ここは楽園か、と思うわけです。
そこがキャンプ場でも、森の中でも、海岸でも、商業施設の中でも、室内でも、どこでも湧き起こる。いや、湧き起こせる。これが原っぱ大学であります、えっへん。
まったくもって不思議なのですが、10年前の子ども・大人と今の子ども・大人で廃材や絵具に向き合う様がまったく変わらないのであります。みな、同じように集中して無心になって髪の毛や手や大切な洋服をぐちゃぐちゃにして絵具と向き合うし、1本のビス、釘を打ち込むのに全集中するのであります。
原っぱ大学ではそういう場を幾多と作ってきましたし、これからもたくさん作っていくと思います。
これまであまりに自然とそうした場をつくってきたので、どうしてそのようなエネルギーの発露が毎度起こるのか、きちんと分析したことがありませんでした。関りとか声がけとか、道具の準備とか、安全管理とか、オペレーション上のTIPSはいろいろあるのですが、なぜこんな風にエネルギーが爆発するのか、よく考えてみたことがありませんでした。
MUJIさんのイベントからの帰り、スタッフの慶ちゃんと話していた時にふと浮かんだんです。
「手だ!」って。
私が無意識に大切にしていたことは「手」を動かすサポートをすることだったんです。何かやりたいけど何をやりたいか分からずにたたずんでいる子に「ちょっとこれ手伝ってー」と声をかけてインパクトドライバーでビスを打ち付ける作業をやってみる。何を描こうか考えている子に「ちょっとここ塗ってー」と絵具と刷毛を渡す。
何が何だか分からないけど、手を動かしていくうちに次のやりたことが見えてくる。浮かんでくる。楽しくなってくる。「アート」とか「創作活動」とか「表現」とかいうと、どうも心の内側の何かの発露と思ってしまいがちだけど、実は「手」が入口であり、出口なのかもしれない。
手を動かすことそのものが世界とつながる入口で、結果として次にやりたいことを表現する出口になっているのかもしれない。何かを創り出すことは当然だけど、心の中で完結するものではなくて、心の中のイメージと世界が触れ合うところで生まれるわけで、「手」が触媒なのかもしれない。手からはじまるのかもしれない。
ひとり、深く納得し、興奮してしまいました。
ワタクシ、こうしたモノづくりのプログラムのときに割と意識的に「これ手伝って!」という声がけをしております。もちろん、ワタシが自分でやってしまった方が圧倒的に早いのだけど、ビスを打つことや色を塗ることを子どもたちに託していく。手伝ってもらう。
それは、まさしく「手から伝わる」ものを感じてほしかったから。「手から伝わってくるものを受け取りながら」、「手を通して世界に伝えて」ほしかったからだ!と思ったのであります。(手伝うってすごい言葉だな)
そうやって「手」が動き出すと世界と自分の内側がつながって、エネルギーが発露するんだな。
先日のMUJIさんでのイベントの素敵なエピソードをひとつ。
写真の紫色の女の子。楽しそうな雰囲気に引き寄せられて近づいてきたけど、何から始めていいか分からず、躊躇してたたずんでいる様子。たまたまその姿にワタシが気づいたのでビス打ちを手伝ってもらいました。2,3か所。楽しそうにビスを打ってそのまま離れていきました。
しばらくして、お母さんと一緒にやってきて、若干もじもじ。お母さんに促されてその子がぽつりといったのは「ボルダリングの壁を作りたい」と。非常に嬉しい出来事でした。皆がペイントしまくったこの壁に持ち手を打ち込んで登れるようにしたいって。なんという発想!写真はスタッフの慶ちゃんと彼女で調整しながらボルダリングウォールを作って登る彼女の姿です。
ああ、最高だ。やっぱりここでも「手」。たぶん、手を動かしたことで彼女のスイッチが入った、のだと思うのであります。
「感じる」とか「心」という言葉からは胸の奥をイメージするし、「考える」とか「思考」という言葉からは頭をイメージするのが多分、一般的だと思います。でも、(科学的な根拠はもちあわせていないけど)私たちは手で感じて、考えて、表現しているのかもしれない、もしかして。
そんな風に想像してみると目の前の自分の手が愛しくなりません?
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