ミミズだって、オケラだって、人間だって♪
こんにちは。原っぱ大学ガクチョー塚越です。
ちょっとした自慢ですが、ワタクシこれまで、原っぱ大学の効果・効能をうたったり、参加者の成長へコミットしたことがありません。「原っぱ大学に参加したら『生きる力』が身に付きます」とか、「原っぱ大学を通じて子育てをするとレジリエンスが高まります」とか、「原っぱ大学を経験した子どもは自己肯定感が高まります」とかとか。そういう表現を使ったことが一度もありません(かなり注意深く避けているので胸を張って“一度もない”と言えます、えっへん)。
もちろん、結果として自己肯定感が高まったり、生命力が上がったり、身体能力が高まったり、ということはあると思いますし、そういう声を聞くとうれしくなります。参加してくださる方々がそうした変化・成長を実感してくださるのは大いなる喜びです。
でも、原っぱ大学を運営する私たちからするとそういった成長・成果は場の一義的な目的ではないのです。
だって、遊ぶ場だから。遊びは本来、そうした合目的的な活動ではなく、文字通り自然に、感じるままに発するものだと信じているからです。「自己肯定感を高めるために、遊ぶ」「生きる力を高めるために遊ばせる」←なんか変な表現、だと思いません?
私が実現したいのは圧倒的、絶対的な人間存在の肯定。もっというと人間存在だけでなくてすべての存在の圧倒的な肯定。誰も彼もあれもこれもぜーんぶ尊い。ぜーんぶオッケー。そこからはじめよう。ってことなのだ、と最近考えています。
あの有名な歌の感じです↓
ミミズだーって、オケラだーって、アメンボだーってー
みんなみんな、生きているんだ友達なんだー♪
この歌、改めてすごい歌詞だな…、と思って誰が作った曲か見たら、作詞がなんと、やなせたかしさんでした。さすが、愛の深さが計り知れない。
話がズレました。
出発地点として、私たち、大人も子どもも、みんなひとりひとりデコボコで不完全で弱くて不器用な存在。そんな存在である自分自身、他者をまるっと肯定するところから始めたい。そのまんまでいい場をつくりたい、そんなことを考えています。
「余を復権しよう。」
私たちが2021年に事業ミッションとして紡いだ言葉です。
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余白があっても埋めない。
余分があっても削らない。
余計なことをする。
私たちは世の船頭に立って、「余」を生み出していきます。
時間的、空間的、関係性における「余」。
一見、無駄に見える、無意味に見える、不要に感じる…。
そんな時間、空間、関係性を大切にし、積極的に創出します。
無駄でいいじゃないか。
成果や結果がなくてもいいじゃないか。
回り道、上等。
私たちが生きる現代社会に「余」があふれること、一人一人の心の中に「余」があること。「余」の大切さ、尊さを一人一人が体感して、余裕と余力を持って存在できる世を形作っていきます。
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「余」の溢れる世の中は、そのまんまでいられる世界。効率が悪いから、最適解じゃないから、スピードが遅いから・・・。そんな論理で選択肢や存在そのものが否定されない世界。
本来、世界の成り立ちは正解も不正解もないもの。効率も非効率も、最適も不適合もない。そんなラベルは人間が作り出した幻想。だから、余がそのまま認められる、ということは素のままの世界を味わう、ということなのであります。
はい、だんだん禅の世界に近づいてまいりました。そうなのです、遊ぶ、ということは人間存在に立ち返るということでして、人間存在に立ち返るということは宗教の根源的なスタート地点と共有しているのだと考えております。
そしてそして、ChatGPTの登場で「最適解」と「スピード」では人間がAIにかなわなくなる未来がそう遠くないと私たちが実感できてきた2023年。最適解によりスピーディに効率よくたどり着ける時代になるからこそ、人間が身体的で不完全で、不器用な存在としてそのまんまあれるようになると思うし、そうなりたいという願いがあふれ出てくるんじゃないかと想像しています。
AIが圧倒的なスピードで進化し「最適解」を追及してくれるからこそ、その極北として、人間はもっとデコボコで不完全で、どんくさくて、ドロドロしてて、だから愛おしい。そう言い切れる世界を作っていけるのだ、と信じております。
私が実現したい「余の復権」とは「生命体としての人間の復古」なんでござんす。
話のスケールが大きくなりすぎました。本日はこの辺でおしまい。
ではでは。
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