子どもたちが主体的であれる場について
この週末に高校3年生の長男の体育祭を見に行ってきました。コロナ禍でこれまで見に行くことが叶わず、私にとって初めての体育祭。伝統的に生徒たち自身が役割分担をして1年間かけて準備、企画、運営をするというお祭り。長男も何カ月も夜中まであれやこれやをやっての当日でした。そんな高校生たちの体育祭が「主体性と責任」について考えさせられる、気づき多き場でした。
体育祭の目玉は生徒たち自身が振り付けし、衣装をつくり、大道具をつくり、踊る演舞大会。非常にスケールが大きく紅白歌合戦を見ているかのようでした。高校生でこんなことができるんだ、とティーンエイジャーたちの真剣な姿に胸が熱くなりました。
一方で、体育祭自体の運営・進行はなんだかグズグズでちぐはぐ(と私は感じました)。
ルールが伝達しきれていなく競技者が混乱することはしばしば。運営と選手間のコミュニケーション不足、段取り不足で進行がいちいち15分も20分も滞る。競技のルールが複雑で選手にも審判にも浸透していないから判定、集計でいちいち滞る。結果、全体のスケジュールが2時間近く押す…。
場づくりを生業にしている私からすると、ああもう…、とイライラして、ここをこうしてこうすればいいのに、とかああー、事前にこういうことを押さえておけば大丈夫なのにとか、各論で言いたいことが溢れまくってきます。
しかし、どんなにグズグズの進行(と私が感じ)でも、滞りまくっても、先生たちが泰然自若として動かない。いや、そもそも先生方の気配すら感じない。
この体育祭、文字通りすべてを生徒が行っています。進行表、ルール作り、全体の仕切り、アナウンス、審判、道具の出し入れ、選手や保護者の受付、誘導…。運営のどこにも先生が介在していない(先生の気配すら感じない)。生徒間での調整や確認にいちいち時間がかかるし、あちこちで議論が勃発する。そして、そのたびに進行が止まる。
最初、ワタクシは上述したように、ちょっとイライラして、もっとこうすればいいのに、ってことばかり考えていたのですが…。しばらくすると、あまりの徹底した「生徒主体」っぷりに感動が沸き起こってきました。
そして、気づいたんです。この場の主役は、完全に、徹底的に生徒たち自身なんだ、と。そして責任のひとつひとつが生徒にゆだねられている、と。
保護者やご近所の皆さまに生徒たちの日ごろの努力と学習の成果をお披露目する場ではない。生徒たち一人一人が自分たちで考えて行動して、ときに失敗したり詰まったりして、そこで起こる喜びも、トラブルも、すべて生徒たちのもの。そしてそのことがおそらく先生方、生徒たちの間で当たり前すぎるぐらいに徹底的に共有されているのだと感じました。
象徴的だったのが、2時間ほどスケジュールが押していたため、種目のひとつが急遽、中止になったときのこと。アナウンス担当の生徒が「次の種目の〇〇〇は時間の関係で中止になりました」と発表しました。当然ですが、保護者席がざわめきました。「競技直前で中止なんてありなの?」大人の常識からするとびっくりでザワザワしたわけですが…。その保護者席に向かってアナウンス担当の生徒がぴしゃりと一言、「静かにしてください」。自分たちで進行して、自分たちの責任で出した結論。外野は黙っていなさい、と。ああ潔い。そう、「責任」をもって生徒が場を運営しているんです。
自戒を込めて書きますが「子どもの場」とか「子どものための場」とか言いながら、保護者の短期的な評価を意識することの如何に多きことか。そりゃ保護者にきちんと成果を感じてほしくなってしまうのが人情というものだけど…。その人情が故、無意識的に子どもたちが責任をもつ機会を奪ってしまってのかもしれない。
おそらく、この体育祭は生徒も先生も関わる一人一人に今回の体育祭が誰のための何のための場か、ということが徹底的に共有され浸透している。場の運営の責任は生徒たちが手にしている(もちろん、安全等の一番外側の最終の責任は、先生方が覚悟をもって持ってくださっていると思います)。2時間スケジュールが押しても、運営がグズグズでも、生徒たち自身の手で責任をもって最後までやり切るということが、場の当然の最優先事項だったのだと思います。
そしてここまで書いて思うのだけど、「グズグズな運営」との一方的な「評価」を下したのは勝手な外野のワタクシなわけで、生徒たちにとっては決してグズグズではないのかもしれない。自分たちの責任で、自分たちで作り上げて、最後までやりきること。その尊さと比べたら多少時間を押したり、進行がスムーズでないのは些末などうでもいいことなのかもしれない。
生徒たちは本当に楽しそうに、真剣に、自分ごととして場をつくり、楽しんでいました。
なんだかすごいものを見させてもらいました。おかげで自分自身の凝り固まった「オトナ的な」考え、視座に改めて意識を向けることができました。
たしか前にもこのメルマガで書いたけど、私は「主体性を育む」という言葉が好きではありません。「主体性」は育まれるものではなく誰しもが持っているものだと考えているから。そして、今回の場を見て思ったのは覚悟をもって「主体性を発揮できる場」あるいは「主体性を発揮せざるを得ない場」があると、人はこうも主体的に、自らの責任において動けるのだということ。
そして、そんな場では、「大人」は些末なクオリティを取り上げて四の五の言ってはいけないのだ、ということを知りました。
もちろん、こうした子どもの主体的な場づくりは子どもたちの年齢や発達や集団の関係性などによるから、今回のようなケースがいつでもどこでも成立するわけではないと思います。でも、生徒たちを信頼して責任を渡す覚悟をもって向き合ってくださった先生方、その責任を引き受けて最後までやり切った子どもたちどちらも本当に素晴らしすぎる、と感動した次第です。
ムスメと炎天下で見学。生徒たちは朝早くから始まって、終わったのが19時を回っていたそうです。大変…
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