「本音と建前」について今一度、考えてみた。
「本音と建前」について。最近、しばしばこのことについてチームで議論をしております。誤解を恐れずに言えば、社会経験が豊富な世代は「建前」を重視してコミュニケーションする傾向があって、若い世代は「本音」を重視してコミュニケーションする傾向があり、ここにコミュニケーションギャップがある、なんてことを考えております。そもそも「本音」って何だっけ?「建前」って何だっけ?ってことから考えてみたいと思います。
ではまず「本音」から。ググってみると・・・
「本心から言う言葉」という表現がたくさん出ています。なるほど、「本心」を言葉化したものが「本音」なんだ。初めて知りました。じゃあ「本心」って何だろう?「本心:本当の心、真実の気持ち」だそうです、ふむ。
「本当の心・真実の気持ち」みたいなものが僕らの内側には漂っていて、それに「言葉(=音)」を付したときに「本音」になるということかな。なるほど!それはイメージしやすい。
こうやって考えると「本音」っていうのはきっと不確かで暫定的で、ゆらぐもの、正確にとらえづらいものなんだろうな、と思います。その日の気分や自分の身体のコンディションや相手との関係性で選ぶ言葉はゆらぐだろうし…、そもそも、自分の「真実の気持ち」なんてものを正確に言語化で切る人間がいるのかしら…。
だからきっと、「本音」というものはあいまいで、「いま、最大限努力しまして、私の本心を言葉にして「本音化」してみますとなんとなくこんなことかと思われます」というような暫定的な投げかけしかできないような気がする…、たぶん。
例えば、「私はあの人のことが嫌い」というのが「本音」だと思ったとしても…。その「嫌い」って言葉の背景にある「本当の心」やら「真実の気持ち」やらをたどっていくとその奥底には、「あのとき、あんなひどい言い方されて傷ついた」とか「私の言葉を受け取ってくれない気がして寂しい」とかとか、そんな「本当の心」が隠されているかもしれなくて。そしてその言葉をもっとたどっていくと「もっと私を見てー!」なんて声だったりして。
「本音」とは、かくも曖昧なものなようでございます。
対する「建前」。またググってみると色々出てくるのですが…。主にこの2つ:
①原則として立てている方針。表向きの考え。
②家屋の建築で、基礎の上に柱・梁 (はり) ・棟など主な骨組みを組み立てること。
「本音」と「建前」は対義語らしく、「建前」という言葉には何となく「本音」を隠した表向きの調整のための言葉のイメージが付きまとっているように感じます。でも改めてこの①と②の定義を見ると「建前」はそんなネガティブなものではなさそうです。
②の定義を見ると家づくりで一番大事な部分ですね。これが揺らぐと家が建たない。家を構造化するための一番大事なプロセスだと思います。それが建前。建前が終わると家の形が決まり、後は細部を作りこんでいく工程に入っていく。
ものごとをカタチにしたり、合意形成していくうえでは非常に大切なことだと思います。「建前」がなけりゃ社会がそりゃ回らない。社会を形づくる大切な基本構造が「建前」なのですな。
では、「本音」と「建前」は果たして対立するものなのかしら?
本来は「本当の心」や「真実の気持ち」がないところに「建前」は立ち上がらないのでは、と思うのです。方針を決めていくプロセスにおいてはひとりひとりの「本当の心」が乗っかっていないと、そもそもはじまらない。対立する概念ではなくて、本音があって、それを重ねて一定の合意としての「建前」が立ち上がる、という同じプロセスの線上にあるんじゃないかしら。
ただ、今の世の中を見渡すと、そんなことは理想論に過ぎず、「本音」と「建前」は乖離するものだという大前提があって、そのことが「建前」をネガティブなイメージにさせているのだと思います。
なんでそんな乖離が起きてしまったのかということを考えてみました。私の仮説は以下3つ。
①「建前」と「本音」の力の格差問題
②人間の「本音」なんてろくでもないという思い込み
③「建前」ばかり扱っていたら「本音」を扱えなくなってしまった現象
①「建前」と「本音」の力の格差問題
「建前」ははっきりと言葉化されて固定化されて力強い方針や方向性として示されるようです。一方で「本音」は上に書いたようにふわふわして曖昧で揺らいで暫定的なもののようです。この両者が並んだ時に、どちらがより強固なパワーを持つかといえばたぶんそれは「建前」。具体的な言葉になって、方針になって、原則として指し示されたもの。そんな「建前」の前ではゆらゆら揺らいで暫定的な個人の「本音」などとるに足らないもの、と私たちは扱ってきたのかもしれません。
「一度決めたことには従いなさい」「全体方針には従いなさい」「論理的には正しいでしょ」…。方針としてはっきりと定められた「建前」の前で、ゆらゆらする「本音」は所在なく、力なく、飲み込まれるしかなかったのかもしれません。
②人間の「本音」なんてろくでもないという思い込み
「建前」の後ろ側に隠れている「本音」なんてどうせろくでもない、という私たちの思い込みがあるのかもしれません。「どうせお金を稼ぎたいだけでしょ」「どうせ私たちのことは考えていないでしょ」「そうは言ってもどうせ〇〇なんでしょ…」…。実際に今、問題になっている自民党の政治資金規正法の問題やそれにまつわる政治家の発言なんて、「建前」とその裏側に透けて見える「汚い本音」しか感じられない。しかも、その「本音」はついぞ、我ら市民は知ることができないという諦め感…。この感覚が「建前」は汚い「本音」を隠す砦、みたいに我々が思い込んでいるのかもしれません。
③「建前」ばかり扱っていたら「本音」を扱えなくなってしまった現象
「建前」は社会を動かす原動力で、我々は「建前」を使って社会を動かしてきたから、いつのまにか「建前」を自分のものにしすぎて、自分の「本音」を扱うことを忘れちゃったり、苦手になってしまったのかもしれません。「建前」を自分の「本音」として見誤ったり。「本音」を探すことをあきらめてしまったり。
でも、私たちは機械じゃないから「本心」はなくならないんですよね。「本心」に言葉を付す技術(=本音を発する技術)を失ってしまっても心はそこにあるから…。気づかないうちに「建前」と「本心」が乖離しまくっている、ということが起きてしまっているのかもしれません。
なんだか長くなってしまいました。
「本音」と「建前」の扱いについての世代間ギャップの話が起点でした。
ここまで考えてきて思うのは我ら、経験豊富な世代は「本音」を扱う練習を今一度、してみる必要あるかもなと思います。そうするともしかして「ろくでもない本音」が見えてきてしまうかもしれない。だけど、そのさらに奥にある「本音」を探っていくと、たぶん、いいとか悪いとかを超えた「本音」にたどり着けるんだと思います(この話は長くなりそうなのでまたの機会に)。
そして、本音を扱うのに慣れている皆様は「建前」の向こう側にある経験豊富な世代の「本音」に耳を澄ませてくれたらいいな、と思います。「建前」の砦の向こう側から、ゆらゆらとあいまいな「本音」が聞こえてるはずだから。
本音を扱うことは手間がかかるし、時間がかかるし、面倒だし、結論になかなかたどり着かないし、前に進んでいる感じがしないのだけど…。今こそ、私たちは本音を扱う技術を磨く時じゃないかしら、と思うのです。
スピードが最優先で正解がはっきり見えた社会ではとっとと建前を建てて、どんどんアプトプットを出した方がよかったのだと思いますが…。成熟社会で、人口が減って、正解がひとつじゃなくて、課題だらけの2024年においては、本音を扱って、建前と本音をすり合わせて、場合によっては建前を建て直して…、そんなプロセスで社会を形作っていく必要があるのではないかな、と思います。
そもそも、私たちは「本心」を殺しては生きられないわけで。ゆらゆらした暫定的な本音を発せる社会がきっと気持ちいい社会だと思うし、そんな社会を形作りたーい(←本音)。
雪の庭をサンダルで駆け回る我が家の中3女子(受験生)。本心のままに生きるって素晴らしい。
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