「想定範囲」の外側へ、ほんの少し。

原っぱ大学は「自然教育活動」ではない、と何度もこの場に書いています。それでも、私たちは自然の中での遊び場が大好物です。山でも、海でも、川でも。自然の中で遊ぶことはほんの少しだけ「想定範囲」の外側にはみ出すこと。今日はそんな話を書いてみます。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2023.08.01
誰でも

原っぱ大学は「自然教育活動」ではない、と何度もこの場に書いています。それでも、私たちは自然の中での遊び場が大好物です。山でも、海でも、川でも。自然の中で遊ぶことはほんの少しだけ「想定範囲」の外側にはみ出すこと。今日はそんな話を書いてみます。

「想定範囲」の中で活動することは安心するし、気持ちいいし、勝率が上がるし、悪いことは何らありません。かくいう私も「想定範囲」の中で活動する傾向が強いです。ちょっと前の記事で「成功パターンの罠に囚われる」なんて話を書きましたが、想定範囲のなかにいると安全で快適で再現性が高いのですよね。

でもきっと、「想定範囲の外側」にちょっとだけ足を踏み出すことで新しい世界が拓ける。そして「想定できる範囲」が少し広がる。原っぱ大学はそんな場であれたらなと願っております。

たくさんの子どもたちに触れていると、この「想定範囲」へのこだわりは個体差があるなぁ、と感じられます(『個体差』なんて言葉を使ってごめんなさい)。想定範囲の外側にガンガン飛び込んでいく個体。想定範囲のなかからなるべくはみ出したくない個体。

どっちがいいとか悪いとかではなくて、そういう差がもともと備わっているように感じます(エビデンスは特にアリマセン!あくまでワタクシの感覚値)。

往々にして、慎重派の親御さんは「うちの子は引っ込み思案で」とか「うちの子は度胸がなくて」とか「なかなかチャレンジできなくて」とか「慎重だ」という性質をネガティブにとらえがちな傾向があります。そして我が子に「ガンガン」行けるようになってほしいな、という願いをもっているな、と感じます。

でも、この慎重さというのは、育ちとか環境ではなくもともとのその「個体の性質」だと感じるんです(繰り返しますが学説とかじゃないです、私の経験則&感覚値だから話半分でお願いします)。そして、私が思うのは「慎重である」ということは我が身を守るセンサーが高いということ。危険察知能力が高い、ということ。これって生きるうえで素晴らしい特性ですよね。(ちなみにガンガン行けるのはチャレンジ精神が高いということで、これも素晴らしいことと思います。どちらも尊い特質ですね!)

だから、その性質自体はそのままでいい。というかそのままがいい。というかそのままでしかあれないと思います。かくいう私も、「慎重な引っ込み思案」派代表です。

そんな慎重派が想定範囲の外側へ踏み出すのは自然の中での素朴な体験ってすごく大きいのだと思います。自然の中では想定範囲の外側へ踏み出さざるを得ない状況、というのに陥っちゃうんですよね。どうしても。半ば強制的に。

「虫が怖い!」と行っていても、森に入ればそこは虫たちの世界。普通にあちこちに虫がいる。気づくと自分の肩に乗っている。水びたしになりたくない!と思っていても、突然フィールドで不意に雨が降ってくればどうしてもびしょ濡れになる。

自分の意思ではどうにもならない世界がある。大人に「いやだー、やめてー」と訴えてもどうもしてくれない世界がある。

でもそんな風に半ば強制的に体感させられることによって、思いがけずに想定範囲の外側に押し出されることによって、新しい気付きが得られる。これが楽しいんだな。

もちろん、この「想定外」の気づきと、安全を確保することは絶妙なバランスの上でなりたっており、安全が守られているから、安心して「想定外」に身をさらせる。この安全安心だけど、想定外が起こる、というのが原っぱ大学の場の妙だと思っております、はい。

実はいま、小学1年生から中学1年生までの子どもたち16名と三浦半島の秘境で海遊びキッズ合宿中です。そして、それぞれがそれぞれなりの想定の範囲へのこだわりをもっておりまして、「俺は海に絶対に入らない」と豪語する子らもいるのであります。3泊4日、毎日、海での活動なのに…(主催者泣かせ)。

でもね、なんというか目の前に海があって、海しかなくて、仲間たちが楽しそうに遊んでいれば自然と引き寄せられてくるのであります。そして、あんなに「海には絶対に入らない」と言っていたのに、なんだかすごく楽しそうに海で泳ぎ、魚を見つけ、カニを捕まえ、自慢気にしているのであります。小魚つかまえられたらいいな、と思って網を片手に泳ぎ回っていたら期せずして大ダコを捕まえたりできるのであります。

おいおい、さっきの「絶対に入らない」はどこへ行ったんだ!?と。

気づくと、「俺は生まれたときから海が大好きだったぜ」みたいな百戦錬磨風の自信満々の顔で磯にたたずんでいるのであります。

でもそれでいい。それがいい。そのぐらい過去の自分の発言に囚われない姿が潔い。全力で今を生きているじゃないか。

そして、本人が意識すらしないうちに「想定の範囲」のちょい外側にはみ出しているのであります。それでもって本人の意識すらしないうちに、彼らの「想定の範囲」は広がっているのであります。

自然遊びって素晴らしいのであります。

お、そろそろ子どもたちが起きてくる時間です。では本日はこの辺で!

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