衝突と、向き合いと、間合いの話。

これまで、原っぱ大学の場は不完全な私たち一人一人が、自分自身の衝動に従ってありのままに居られる場、と書いてきました。でも一人一人がありのままに、自分の衝動に従うと何が起こるか。「衝突」です。大人の場合はこの衝突が見えづらくてややこしいけど、子どもたちはストレートにエネルギーがぶつかり合います。今日はそんな「衝突」の話。衝突と向き合う大人の話です。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2023.05.23
誰でも

これまで、原っぱ大学の場は不完全な私たち一人一人が、自分自身の衝動に従ってありのままに居られる場、と書いてきました。でも一人一人がありのままに、自分の衝動に従うと何が起こるか。「衝突」です。大人の場合はこの衝突が見えづらくてややこしいけど、子どもたちはストレートにエネルギーがぶつかり合います。今日はそんな「衝突」の話。衝突と向き合う大人の話です。

基本的には「衝突」は自然なことだし、そりゃ起こる。存分にぶつかればいい、と私たちは考えています。が、それでも武器を持ち出すなどある一線を越えたり、多勢vs少数になったり、小さな子を一方的にやっつけていたり、感情のもつれがとっ散らかって収拾がつかなくなったりすると私たち大人の出番です。

先日のこと。とある小学生男子二人が外野を巻き込んで衝突しました。いつも一緒に遊んでいる二人。一人の周りにはほかの子がおり、もう一人は孤立している。どうやら孤立している方の子が「嫌なこと」をしたらしい。

私が孤立していない方の子に話を聞くと「あいつが〇〇をした。絶対に許さない」と彼。「謝りたいって言ってるから受け入れてあげたら?」と私。「これまでも何度も何度も嫌な思いをさせられてきた。絶対許さない。ここで許したら僕が損だ」と彼。

「許したら僕が損だ」という言葉は私的に見過ごしてはならないラインで、私は語気を強めて「お前は友達と向き合うときに損得で判断するのか。損だから切り捨てるのか」と問いました。彼「ガクチョーに僕の気持ちが分かるのか!?」。私「分からないよ、分からないからこうやって話してるんだ!」

結局、感情のエネルギーが爆発して収拾がつかなくなり、ワタクシはその場は退散。現場にいた高校生スタッフがうまいこと双方の感情の渦を納め、15分後にはいつも通り二人は一緒に遊んでいました(こういうときは、おじさんより彼らと年齢が近い若いスタッフが本当に上手)。

文字にしてみると、このときの僕の向き合いが「正解」だったかはよくわかりません。もっと上手な向き合い方ももしかしてあったのかもしれないけど、現場ではこれが私の中から出てきた言葉、私自身の譲れないラインでした。私の問いへの彼の答えは宙ぶらりんだったけど、そこが私の譲れないラインだということは伝わったかな(たぶん)。

別の日、別のシーン。経営パートナーの志村は、自分たちの「仲間」以外を排除して「あいつらはどうでもいいから」と言い切った小学生に対して「お前らのやってることはクソだせーな」と言い切りました。

別のスタッフは自分より年下の明らかに力の弱い子に手をあげた男子を見た瞬間に圧倒的な迫力で「おまえ、自分より弱いやつに手をあげてるんじゃねーよ」とがっぷり逃さず向き合い続けました。

どれも原っぱ大学の日常の現場です(言葉が汚くてスミマセン)。

どれも一見、ただ大人が子どもを「叱っている」だけのシーンに思えるかもしれません。でも多分ちょっと違う、私たちなりの大切にしていることがあるようです(明確に言葉にして共有してきたわけではないので推定です)。

ひとつは「社会のルール」や「あるべき姿」を押しつけるのではなく向き合う側の主語で主体者として対峙していること。「そういうことをやるとこの社会のルールをやぶることになるんですよ」という風に諭すのではなく「私はそれをダサいと思う」「私はそれをダメだと思う」と自分自身を晒して対峙する。向き合う。

もうひとつは、優先順位は場を収めることではなく相手に向き合いきることに置いていること。ともすると場の雰囲気を壊したくないから、とっとと場を収めたくなるのが人情というもの(あたしもそうです)。お互い謝って、めでたしめでたし、みたいな。でも表面的な解決は何も生まない(相互のしこりと大人への不信は生むかも)。だから時間がかかっても、堂々巡りでも、疲弊しても、エネルギーを出し切って向き合う。

さらにもうひとつ。「思い」は全身全霊で伝えるけど「正解」でコントロールしない。大人が「正解」によってコントロールしようとすることはある種、暴力だと思うのですよね。子どもはその暴力に日々晒されているから察知するし、そうされると従うけど、自分自身をひっこめてしまう。力で支配しコントロールするのはある意味、らくちんなのですが、そこは放棄しようと一人一人が努めている(と思います)。

もちろん、現場では刻々と状況が変わる中で向き合い続けるから、すべてが「うまくいく」とは限らないし、ときに子どもを傷つけてしまったり、言いすぎてしまうこともあります。コントロールしようとしてしまうこともある。その時気づけば謝るけど、その時は気づかずに、後々に自分の接し方を振り返って反省することも多々あります。

そんな数々の失敗も含めて、不完全な私たちが人と人として対峙していくこと。対峙するという覚悟のもとにその場にあること。これが原っぱ大学流の「衝突」との向き合い方、存在の仕方だと思っています。

何度かこのメルマガで触れている私たちHARAPPA株式会社が宣言した6つの眼差し。その3つめと4つめがこちらです↓

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「個々」と書いてそんちょうと読む。

親子、夫婦、友達。
私たちは年齢も立場も関係なく、全く別の存在です。
どんなに近い存在だろうと、一体にはならない。
人生の主人公は、たったひとりの自分。
人生の選択は自由です。
選択の責任を自ら引き受けて生きるお互いを、
それぞれの存在を、ただそのままに尊重しよう。

「間合い」と書いておもいやりと読む。

私たちは、他者の心の中を知ることは不可能です。
時に相手との境界線を見失い、 思い通りにならないことに苛立ち、
相手をコントロールしてしまう。
他者と適切な距離感をとることで、関係性に間ができる。
ほどほどの間合いは、思いやりのある関係性になります。
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大人でも子どもでも、主体性をもって生きる存在を尊重し、ひとつの尊い生命体として対峙する。そして距離を大きくとって視界から外すのでもなく、近づきすぎて同化してしまうでもなく程よい間合いで向き合う。向き合い続ける。

なかなか難しいことなのだけど、これが私たちが原っぱ大学の現場で瞬間瞬間に大切にしていることでございます。

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