駅前のカフェで「盗み聞き」する自分を振り返る。
ただいま駅前のカフェにてこの文章を書いております。隣の女性ががうるさい。ヘッドフォンをしてオンラインミーティング中。仕事のミーティングというよりもコーチングセッションのような内容。なんだかプライベートな彼女の悩みが聞こえてくる。
彼女は声のトーンを落としているのだけど、自然と耳が、意識がそちらに向かってしまう。すると彼女は口元を覆い、こちらを意識するように反対側を向いて話し始めました。こちらを配慮してくれているならありがとう、だけど…。「盗み聞きしやがって」と思っているのかもしれない。そう思うとなんだかイラっとしてきた。肝心な内容は聞き取れないのにぼそぼそと雑音だけが耳に入ってくる…。私は被害者なのか、それとも加害者なのか。それともいったい何だろう?
いや別に盗み聞きをしようと思っているわけではないのだ(でも少し興味がある)。あなたの声で気が散って文章を書くことに集中できないのだ(でも、こうしてネタにさせてらっている…)。
この間の自分の変化が不思議。
隣の女性の存在にイライラする自分。興味の対象とする自分。はたまた(勝手に)この文章のコラボレーションのパートナーとする自分。
この文章を見られたらまずいと思いながら、PCの画面を彼女から見えないように少しずらした。ちょっと視線を感じた。バレたかもしれない!?心拍が少し上がる。
画面をスクロールして書いた文章を隠した(なんともいえぬ背徳感)。少し落ち着いた。
めまぐるしく変わる自分の心持ち。隣の女性が「迷惑」や「脅威」に感じられた瞬間もあれば「味方」や「感謝の対象」に感じられた瞬間も。
そして、彼女はミーティングを終了してそそくさと立ち去っていきました。
彼女がワタクシをどう感じたか、私は知る由もありませぬ。そして彼女が実際にどう感じていたかは私にとって大した問題ではないのかもしれない。結局、ワタクシの彼女へのラベルは私自身の内側から沸き起こっているだけのことだったのです。
しかも、自分の側に後ろめたさ(今回で言うと無断にネタに文章を書いてるということ)があると、「敵」とか「脅威」といったネガティブなラベルが量産されるのだということでした。逆に、感謝とかありがとう、という気持ちがあると彼女への私の目線が穏やかにいられるのでした。
これって、おそらく人間関係そのものでよくあることだよなぁと思い至るのです。こちらが勝手に相手を敵か味方か分類してラベリングしている。そしてそれは冷静で論理的な判断というよりも、今回の私のように感覚的で、身体反応(心拍数や嫌なフィーリング)で直観的に、相手の側の事情とは関係なしに行っているのだな。
そんなことを気づかせてくれて、そしてメルマガの書き出しのネタをくれてありがとうございました。
以上、カフェの現場からのレポートでした。
今日の文章でワタクシが書きたいなと思っていたテーマは「あいまいさに委ねることの大切さ」みたいな話でした。結論に飛びつかず、「どっちつかず」なあいまいな状態でただよう時間が大切ではないか、ということを書こう、とぼんやり考えていたのです。
ただ、いざそのテーマで書こうと思ってPCに向かっても、なんだかうまいこと考えがまとまっていかない。文章が書ける気がしない、と少し困ってしまっていました。そんな状態のときに冒頭の女性と出会ったのであります。
今、改めて考えてみると、「あいまいさに委ねることの大切さ」という文章を、結論ありきであいまいさに委ねずに書こうとしていたことに無理があったのかもしれません。「大切さ」を語る文章を結論ありきから書き始めてしまうと、どうしたって説教臭くなってしまうんです。そんな文章を書きたくない自分と、でもそのテーマで書いてみたい自分とで揺れ動いていたようです。
で、ふと、隣の女性に意識を向けて、あいまいなままに、結論を定めずに書き始めてみたらなんだかすらすらと文章が書けたのであります(隣に座ってくださって、オンラインミーティングをしてくださってありがとうございます!)。
ときに結論を留保して、あいまいさに委ねるといいことがあるかも、ということがやはり言えそうなのです。
あいまいなままに、偶然に委ねながら手を動かしてみること(今回の場合:文章をノープランで書き始めたこと)。結論は急がずに、目線をあげて心を周囲に少し開いてみること(今回の場合:うるさいなぁ、と思っていた隣の女性に意識を向けたこと)。その時の自分の反応、内側で起こる変化を少し冷静に観察してみること(今回の場合:彼女をラベリングする自分を眺めてみたこと)。
これって単純に楽しいし、発見が多いことだな、と思うのであります。そして気づいたら、当初、イメージしていた結論のすぐそばに着地したりするのであります。
うん、あいまいさに委ねてみることは、大切なことだと思う。
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