忘れることができる人間、バンザイ!
話題のアニメ映画「我々は宇宙人」を観ました。心の奥の深いところに仕舞ってあった古い記憶をツンツンされるような映画。印象的な映画が多かった2026年の中でも、この映画は深く心に残っっています。事前インプット情報は少なく観ていただきたいので、物語の詳述は避けつつ、この素晴らしい映画を観て感じたことを書きます。
物語の冒頭は小学生男子たちのお話。
子ども時代だからこそかえってリアルに浮き上がる人間の純粋さ、明るさ、優しさ、暖かさと、薄汚さ、自己中心さ、雑さ、情けなさ、かっこ悪さ、保身…。ちょっとしたすれ違いの痛々しさや大人からの不条理な圧や学校という空間の息苦しさや、河原とか公園とか自分の部屋の心地よさ・・・。たぶん、世代を超えて記憶の底に眠っているであろう子ども時代の混沌としたあれこれが、これでもかというほどにリアルに迫ってきます。
映画を観ながら、今はもう、会うこともない当時の友人たちの姿が頭を駆け巡りました。親しかった友人たちとのかけがえのない時間。自分がかけられた心ない言葉たち。あるいは自分がかけて、すっかり忘れてしまったであろうひどい言葉の数々。
成仏したと思っていた私自身の小学生当時の記憶の断片がよみがえります。
放課後に磯に遊びに行ったら、潮だまりに小さなサメが取り残されていて、なぜか知らないけど、そのサメに向かって友人たちとおしっこをかけたこと。山のなかに秘密基地をつくっていたら、近所のおばあさんに注意されて、「ここはほんとにあのババァ(失礼)の土地なのか、市役所に行って調べてやる!」と鼻息荒く仲間と語り合ったけど、結局、テンションが下がって秘密基地プロジェクトは中段したこと。大の仲良しだったO君と一緒にUFOを呼ぼうと空に向かって懐中電灯を照らし続けた夕暮れ。
友だちの家のクリスマス会で男女ペアになって手をつないで写真を撮る、という余興があったのだけど、なぜか僕のペアの女子は服の袖で自分の手のひらを覆って僕の手に直接触れなかったこと(そのときの彼女の薄笑い)。図工の絵画の時間で、僕が描いていた木の葉を先生が「色が違うわね」と言って僕の上から別の色で塗りたくられたこと(塗りつぶすときの先生のため息)。バレンタインデーのとき、モテ男子たちが数十個のもらったチョコ自慢をするのに、僕はいつも0個か義理チョコ1個で、自宅で母にそのことを伝えるときに毎度感じた申し訳なさと居心地の悪さ。
誰がいいわけでも悪いわけでもない、そこらへんにありふれた子ども時代の日常。そんな日々、僕もずいぶん傷ついたし、ずいぶん人を傷つけていたのだろうと想像します。
「我々は宇宙人」で私が感じたのは、そんな不完全な子ども(というか人間そのもの)への優しいまなざし。そういう、薄汚くて弱くて自分勝手で傷つきやすい人間。ちょっとした勘違いや思い込みから人を傷つけたり、自分が深く傷ついたりしてしまう人間。それでも一所懸命に生きてい私たちひとりひとりの存在そのものを「全肯定」する姿勢を強く感じました。
傷を負った人間、傷つけてしまった人間への「救い」はどうやら、「忘れられること」にあるようです。忘れてしまう、という私たちのどうしようもなさに、私たちは救われるようです。
どんなに傷ついても、どんなにムカついても、どんなに忘れないようにと思っても、時間が経過しているといずれ、記憶は薄れていく。記憶していた形は変わっていく。10年後じゃないかもしれないし、20年後でも足りないかもしれないけど・・・、人間はいつか、忘れることができる。「忘れられる」可能性があることに、救いがある。
上に挙げたエピソードはどれも、たぶん、実際に私が経験したことだと思うのだけど、もはやそれが実際にあったことなのか、私が記憶を捏造したことなのかはっきりしない。当時はひどく傷ついたであろうことも、今ではぼんやり、「多分あの頃の私は傷ついたのだろう」と想像するようなぼんやりした記憶になっている。
この、時間の経過とともに記憶に霞がかかっていく感じが、私たちをきっと優しくしてくれる。
忘れられるっていいな。
それこそ、AIが社会の中心になれば様々なコンテキストはデータとしてあれもこれも記憶されるようになるのだろうけど、それが行き過ぎるときっと息苦しいでしょうね。自分自身の生の体験や感覚や想像や妄想や思い込みなどは、間違ってもデータ化なぞしようとせず、自分が追いゆくとともに、時間と共に、風化させていきたいなと思った次第です(と言いつつ、この文章のような私の妄言を文字データとして世に積極的に公開しているこの矛盾は何なんでしょうね・・・)。

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