「コミュニティ」じゃなくて、いいよね。
私、いわゆる「コミュニティ」が苦手です。仲良くなることが目的化した場で、仲良くなるために会話をするのが非常に、苦痛。共通の価値観に向かって働く目に見えない強制力のようなものが苦手。それでも私は自分の仕事としては人が集まる場を作り続けております。この矛盾は一体何なんだろう、と自分でも思うわけです。
おじさんだけでワイワイ、ヨガに興じる
この週末はもう3年続いている「俺のヨガ」の合宿でした。おじさんたちが集い、おじさんたちだけでヨガをする場。合宿は山梨の山奥までいき、小川のせせらぎを聞きながら半裸のおじさんたちでヨガに興じる。みんなで滝に打たれ、一緒にご飯を食べ、一緒に温泉に入り、一緒に寝る。おじさんばかり十数人。なんだか楽し気にワイワイやっている。
端から見ると、何だあれは・・・、と思われるかもしれません。この写真だけを見ると、ちょっと引く人もいるかもしれません。そして、その姿はどう見ても「コミュニティ」そのもの。おじさんが集い、なんだか皆、楽しげ。仲良さげ。正直、僕も自分が輪の内側にいなかったら、この様をみて「おぇ・・・」と思ったかもしれません。
ただ、「俺のヨガ」は私が冒頭に書いた「コミュニティ」とはだいぶ違う、と思う。
「仲良くなる」っことは目的ではなくて結果。仲良くならなくてもいい、心を開かなくてもいい。自分のペースでやりたいようにヨガをやればいい。ヨガに対する向き合い方はそれぞれでいい。それぞれのペースで、それぞれがその場に居られる。その安心感が、最初にあるから「俺のヨガ」は気持ちいいのかもしれない。(でも、結果として皆、仲良くなっているのですけどね。)
これは最初の頃から先生である佐藤ゴウさんと話してきたことな気がします。一人一人が、それぞれのペースとそれぞれの思いでその場に居られること。心の調子がよくても、悪くても。体調がよくても、悪くても。その場に深く関わりたいという思いも、薄く関わりたいという思いも、どちらでもよい。その場、そのときのその人自身が尊重される場。言葉にしてこなかったけど、そんな場づくりにゴウさんも僕もこだわってきたように思います。
僕が苦手だったのは「帰属意識」
ここまで書いて、「コミュニティ」ってなんだっけ?と改めて思いました。
wikipediaによると ”成員の相互関係や帰属意識にもとづいて一定の連帯を形成する人々の集まり(社会集団)”とのことです。
なるほど、帰属意識。
それだ。僕が嫌いだったやつの根源。
小学校の頃の少年野球のチーム、クラスの運動会や文化祭の集まり、会社の事業部の宴会、保護者同士のオヤジの会的な場、経営者の集いetc...。僕が苦手だった場の数々(こうして挙げると完全なるダメ人間・・・)。
強弱あれど、そうした場で言外に求められる帰属意識が嫌いだった(いや、たぶん、過去形じゃなくて今も苦手)。
俺のヨガだけでなく、原っぱ大学も、デジタル原っぱ大学も、僕が運営に関わる場はそうした「帰属意識」の暗黙の強制をなるべく、なるべく、なるべく、出さないようにしたいと努めてきました(うまくいっているかは分からないけれども)。
「帰属意識」が結果的にそれぞれの内側に生まれるのであればありがたいことだとは思う。でも、それが目的化してしまう場は、居心地が悪い。
帰属意識の強弱で階層が生まれたり、何らかの同調の圧が増えること。これが嫌なんだ。もちろん、帰属意識が高い集団であれば、一定の成果に向けてより大きなパワーを発揮できるようになるのだと思う。ただ、その代償としてメンバーひとりひとりの思いや心の機微が置いてきぼりにされるような気がする。
「コミュニティ」でなくて「原っぱ」
そいう言う強制力が働く場が苦手だから、「コミュニティ」ではない人が集う場をつくりたい、という思いがあるようです。人は集う生き物で、集うということはどうしてもそこに帰属意識が生まれるわけだから・・・。人間の本性に対してなかなか難しいチャレンジをしているようだ、と思いつつ。
でもね、そんな場こそが「原っぱ」だと思うのであります。それぞれが、それぞれのそのまんまの形で居られる場。

おじさんみんなで滝行。これもヨガ。
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