誰も、部外者でいられない。

先日のこと。漁師の友人と話をしていたときのこと。「海の様子はここ数年で本当に変わってきた。獲れる魚も、海藻の様子も。切実なんだよね…。だから、海にゴミが落ちているから“拾った方がいいよ”とか言われると腹立つんだよね。自分には関係ないことを外側から言われているような感じがして」。飲みの席での何気ない会話だったけど、彼が伝えてくれたことが心に残っております。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2024.04.16
誰でも

先日のこと。漁師の友人と話をしていたときのこと。「海の様子はここ数年で本当に変わってきた。獲れる魚も、海藻の様子も。切実なんだよね…。だから、海にゴミが落ちているから“拾った方がいいよ”とか言われると腹立つんだよね。自分には関係ないことを外側から言われているような感じがして」。飲みの席での何気ない会話だったけど、彼が伝えてくれたことが心に残っております。

私は彼のように一次産業に従事しているわけではないけど、それでもここ10年での環境の変化を日々感じております。小さな変化だけど。夏の高温、春と秋の期間がどんどん短くなっている体感。天気の振れ幅が大きく、中間の季節が短くなった感じ。原っぱ大学を始めたばかりのころは蚊が活動しだすのが6月に入ってからだったのが、今年は3月から飛んでいました(例年は蚊の活動が終わるのが10月だったのが12月の末にも飛んでいた…)。いつもは11月にはいなくなるスズメバチが12月末になってもフラフラしていた。花が咲く時期が少しずつ前倒れ、ズレている。

ひとつひとつの変化は小さな変化だし、いったりきたりの中で徐々に変わっていくから、大して実感をもてないことだったりもします。そして、自分の中にも沸き起こってくるのが、「じゃあ個人として何ができるの?環境変化は地球規模の話だしできることって大してなくない?」みたいな言葉です。

もうひとつ、こういうことを書くとどうしても慎重になってしまうのが、「ガクチョーは逗子に住んでいて、原っぱ大学をやっているから感じるんでしょ。自然派の人だもんね。自然のそばに暮らすっていいよね」的な反応を想像してしまうこと。←まあこれは私が勝手に描いた被害妄想なのだけど。

ここまで書いてみて思うのは、この話題の難しさは以下の3つが背景にあるのかもしれません。
①変化そのものを実感をもって感じにくいこと
②自分が何ができるかイメージしづらいこと 
③感じ方、考え方の差が大きくて同じテーブルで話しづらいこと

で、冒頭の漁師の友人の言葉が思い起こされるのであります。

「今年の猛暑やばいよね」「この海、ゴミがたくさんでなんとかした方がいいよね」といった言葉にはどこか、部外者的な、自分とは関係のない世界で起きている出来事という感覚が無意識的に含まれているのかもしれません。

どうしても私たちは今、目の前の普段の暮らしに影響が少ない(と考えてしまう)事柄には意識の優先順位が下がってしまいがちです。目の前の普段の暮らしや仕事でいっぱいいっぱいだから。でもよくよく考えると、自然環境の変化は私たちの目の前で起こっている出来事なんですよね(正確には私たちの生きる環境そのもので起こっていること)。この大地に立って、息を吸って、大地や海や川からの恵みを食べて生きている。その実感を持ちづらい暮らしかもしれないけど、それは紛れもない事実なわけで。

誰も、部外者でいられない。

これは頭で理解するだけだとどうしてもズレてくるんだと思うんですね。「地球に優しくしよう!」とか「持続可能性を大切に!」といったスローガン的になってしまう気がします。だから、実感が必要だと思うんです。

冒頭の友人はそのあと、こんな風に話をつづけました。「わかめを水揚げすると、細かな発泡スチロールの屑が絡みついているんだよ。それをひとつひとつ洗い流していると嫌な気持ちになるし、残念な気持ちになるし、怒りが湧いてくるんだよね」と。

この実感。怒りや悲しみも含めた感情の共有が「部外者的でない」在り方のスタート地点なのかもと思うのです。

自然のそばにいると、もちろんたくさんの喜びも感じられます。春が来ること、花が咲くこと、虫たちが動き出すこと、魚が増えること、食べ物が獲れ始めること。私が暮らす逗子の自然は大きな自然ではないけれども、それでも巡る季節は根源的な喜びをくれます。一方で先に書いたような自然そのものの変化や溢れるゴミを目の当たりにすると悲しさや残念さや不安が沸き起こってきます。

たぶん、自然そのものに触れることから得られるポジティブな感情もネガティブな感情もその全部を味わって受け取ることが、部外者ではなくて当事者になることなのだろうと思うのです。

そしてそれは決して、自然が豊かなエリアで生活する必要があるということでもなくて。季節を超えて、継続的に身近な自然に眼差しを向け続けること、関わり続けることから始められるのだと思います。家庭菜園でも、ベランダ菜園でも。近所の公園の雑草や街路樹に意識を向けることでもいい気がします。

季節を超えて、自然に関わり続けること。遊びでも畑でもお散歩でもなんでもいいから、気持ちいい季節だけでなく、同じ場所で四季をマルッと継続して関わり続けられたらいいな、と思います。そしてそれは子どもたちではなく、我々大人から、というのが大切だと思います。

最後に少し宣伝です。5月に原っぱ大学をリニューアルするのですが、その中で「ファミリー」ではなく「大人」に向けたプログラムをスタートしていきます。先行して体験プログラムを無料で提供しています。ご興味のある方、遊びに来てください。大人が本気で遊ぶ。大人が自然と触れる。そんな機会を継続して作っていくプログラムです↓

5/8(水)【大人だけDAY】みうらの森林で苗を植えよう
→先日、新しく開墾した畑に苗を植えていきます。それこそ、季節を超えて土に触れるきっかけに!
5/18(土)【大人だけDAY】みうらの森林で大探検!
→三浦半島の未開の山に分け入って探検に出かけます。山をマルッと感じるのです!

体験参加のお申込みはこちらより!ぜひ自然との小さな関わりをともに大切にしましょうぞ。

「みうらの森林」の固い粘土の土地をせっせと開墾。たった数メートル四方の畑をつくるのも1日がかりです。そんな経験も大事だと思っております。

「みうらの森林」の固い粘土の土地をせっせと開墾。たった数メートル四方の畑をつくるのも1日がかりです。そんな経験も大事だと思っております。

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