ゲーム好きは野遊び上手、なのだ。

原っぱ大学のフィールドで焚火に夢中になったり、工作にものすごい集中力を発揮する子がいます。そんな子の保護者に「野遊び上手ですね。普段からよく自然で遊んでいるんです?」なんて話を振ると高い確率で「いやいや、日常はゲームばかりしてて困っているんです」という言葉がかえってきます。外遊びとゲームは対極の位置づけに置かれがちですが、実は根幹がつながっている、というのが私の持論です。
原っぱ大学 ガクチョー ツカコシ 2024.04.30
誰でも

原っぱ大学のフィールドで焚火に夢中になったり、工作にものすごい集中力を発揮する子がいます。そんな子の保護者に「野遊び上手ですね。普段からよく自然で遊んでいるんです?」なんて話を振ると高い確率で「いやいや、日常はゲームばかりしてて困っているんです」という言葉がかえってきます。外遊びとゲームは対極の位置づけに置かれがちですが、実は根幹がつながっている、というのが私の持論です。

ゲーム。それは今の時代の子育てにおいて、スマホ、動画視聴と並んで親のお悩み3大巨頭のひとつでしょう。そして多くの親が子どものゲーム時間を減らせないかとあれこれトライするもののなかなかうまくいかない、という感じでしょうか。

自然の中で遊ぶ場を運営していると、ゲーム反対派だと思われがちです。が、実は私自身がゲームを嫌いではなく(下手くそですが)、いまもPCにゲームをいれて、遊んでおります(『fall out』というアマゾンプライムのオリジナルドラマが最高に面白くて、そのネタ元のゲームをつい先日やり始めたら面白すぎて沼にはまって困っています…)。

私もゲーム沼に入り込む子どもらの気持ちはよくわかるのであります、はい。もちろんさすがにゲームをやりすぎて昼夜逆転、というのは人間的な暮らしを営む上で避けるべきですし、何事もバランスが必要だと思います。

ただ、今どきのゲームの世界と、原っぱ大学が生み出す自然の中の遊び場には大きな、そして大切な共通項があるように私には思えます。

その共通項は何かといえば、「自分で考えて、決めて、自分で行動して、自分の責任で成功なり失敗也を味わって、そこから学んで次につなげる。そのプロセスにあーだこーだ大人の論理が入ってこない」ということです。もちろん身体性が伴うこと(野遊び)と伴わないこと(ゲーム)という大きな違いもあるのですが…。それよりも何よりも自由と自己決定、という大切な部分を共有していることが大きいのだと思うのです。そしてそれは子どもたちにとって(子どもだけじゃなくて人間全員にとって)非常に大切なものだと思うのです。

私たちが生きている環境、とくに都会での生活においては、「ルール」がまず先に立ちますよね。学校や幼稚園や保育園はもちろん、公園にしても、公共空間のどこにしても、決まったルールのなかで、安全が守られた中で与えられた選択肢のなかで行動することが求められる。すごく狭い幅の中でしか自己決定権がない。あるいは自己決定権そのものがない。

自分で決めて、トライ&エラーを繰り返して、そこから何かを獲得していく、という実感を得づらいのだと思います。それってとても退屈でつまらないことだと思います(←子どもたち自身がこのように言語化できなかったとしても!)。だから、子どもたちはゲームの中にその経験をしに行くのです(たぶん)。

今のゲームの世界は本当に自由です。なんでもできるし、他者とコミュニケーションもとれる。ゲームを構成するルールはあれどたくさんの選択肢のなかでトライ&エラーをできる。そこに広がっているのは「世界」そのものです。自分で決めて、他者と協力して、試行錯誤を繰り返すことができる。これって遊ぶことの価値そのもの。そりゃ惹きつけられるよな、と思うのです。

数年前の印象的だった経験をシェアしますね。その時、私はスマホで流行っていたチームで戦うオンラインゲームをやっていたんです。原っぱ大学のスタッフや子どもたちとオンラインでつないで、遊んでいたのですが、ワタクシは初心者でどうしようもなく下手くそでした。一緒のチームでプレーしていた当時、中学生の子がゲームの中のキャラクターを華麗に操作して私のことを守ってくれるんです。そして「ガクチョ、このアイテムをもっていきな」とか「あそこに敵がいるから気をつけて」とか、オンライン越しにすごく優しく、バディとして助けてくれました。そのときに自分の中にわき起こった「助けてくれてありがとう!」という気持ちが何だか新鮮で、そこにリアルな世界を感じたのです。

話が少しそれたのですが…。そう、ゲームは忌避すべき中毒性を孕むもの、というのではなく、リアルな世界そのものなんです(もちろん、生活リズムが崩れないように一定の遊ぶルールは必要だと思いますが!)。

そして、ゲームの世界で、自由に自分で決めて遊ぶことを知っている子たちは、原っぱ大学に来て「好きに遊んでいい」ということを直観でとらえると、それはそれは、自由に伸び伸びと遊ぶのです。自分で経験を積み上げてトライ&エラーを重ねるのです。もちろん、ゲームの世界では身体性をともなった体験はなかったのだろうけど、そんな彼らだから、リアルな身体性を伴った遊びにびっくりするぐらいのめりこんでいきます。そして身体的な経験を一気に獲得していきます。

大人の一般的な目線からすると、ゲームばかりやっていると、運動が苦手になるとか、コミュニケーションが苦手になるとか、現実世界では落伍者になる、と思いがちですが…。たぶん、そんなことはない。ゲーム好きと野遊び好きはばっちりつながっているのであります。そして野遊び好きはばっちり現実世界を面白がりながら生きていけるのであります、たぶん。

ゲームはたぶん、都市生活の中で失われてしまった野遊びの代替手段、遊びの場であり学びの場なのだと思います。だからこそ、子どもたちがゲームに惹かれるのは自然のことなのでしょう。

だからゲームをどんどん与えましょう!と主張したいわけではございません。

ゲームに子どもがはまって困ってしまっている…、なんてことがあったらぜひ野山に連れ出してみてください。そしてそこでは遊び方を押し付けるのではなく、自由を渡してみましょう。ノコギリの1本、ナイフのひとつを渡して、好きに遊ぼうぜ、って伝えてみましょう。きっと子どもらはゲームの中のように、水を得た魚のように伸び伸びと遊びだすと思います(もしよかったら原っぱ大学に連れてきてくださいね!)。

そしてそして、大人たちも子どもに教えてもらいながらゲームの世界に飛び込むとたくさんの気づきがる、そんな気がします(ゲームにはまっている自分への言い訳…)。

chat GPTに描いてもらいました。

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