タロウは、蜃気楼を追いかけたのか?
映画「南極物語」。皆さん憶えていらっしゃいますか?犬のタロウとジローとその仲間たちが南極の基地に置いていかれてしまう話です。ふとしたことから妻とこの「南極物語」の話になりまして、あまりにあいまいな自分の記憶にふらついた、というのが今日のお話です(ささいな、とりとめのない話)。
wikipediaで見ると「南極物語」は1983年の映画。ワタクシは当時5歳だったようです。映画館で、幼稚園の友達たちと見た記憶。「南極物語」を思い出すと引っ張られるように「風の谷のナウシカ」と「東映マンガ祭り(キン肉マンとか、ギャバンとか?)」と「大長編ドラえもん(魔界大冒険とか鉄人兵団とか海底奇岩城とか)」とかなんとかが、ゆらゆらと記憶から湧き上がります。
たぶん、そのどれも幼稚園の友達とそのお母さんたちと、横須賀の小さな映画館に観に行った記憶。そしてその記憶が同士が貼りついて混ざり合って、混然一体となっております。
なかでも「南極物語」は悲しい物語、として私の心に刻まれておりました。犬が置き去りにされて死んでしまう悲しい物語。疑うことなく、40年以上(40年!?)そう思い続けてきたのですが、妻曰く、タロウとジローは生き残って、南極隊員(高倉健)たちと再会するから決して悲しい物語ではないよ、とのことでした。へ!?
私の中では悲しさしかない。置き去りにされた犬たちの悲しさ。「南極物語」を思い出すといつも浮かぶシーンがあります。南極の氷の向こう側に浮かぶ街の蜃気楼。その蜃気楼を街と間違えて、そこに向かって走って行ってしまう犬。その悲しい情景。蜃気楼って怖いなぁ、南極でも蜃気楼で街が見えるんだなぁ(←見えるのかなぁ…)、という朧気に思った記憶ともの悲しさ。そんな記憶が残っているんですが…。
改めて検索したり、wikipediaを見たりしても、そんなシーンは出てこないんです。非常に象徴的な悲しいシーンだと思っているのだけど。もちろん、映画を今、改めて観て確認すればいいだけなのだけれど…。あまりにも悲しい(と40年来思い込んできた)あの物語をもう1度観たくないという思いと、その曖昧でゆらゆら揺れる自分の記憶のままに心の中に留めておきたい気持ちとで、事実を確認する気がおきないのであります。まあいっかそのままで。
wikipediaを読んでいた妻が言いました。「南極物語」にはタロウとジロー以外にも南極に取り残された犬の仲間がいて、いろんな形で死んでしまうシーンがあるのだけど、そのうちの1頭がオーロラを見てびっくりして半狂乱になってどっかにいってしまったというものだったとのことでした。「『オーロラ』と『蜃気楼』を取り違えたんじゃないの?」という妻の指摘。
いや、でもそれは違う。僕の記憶のシーンでは昼まで、真っ白な景色の向こうにおぼろげながら建物が見えて、広大な表現を何もないはずの蜃気楼を追っかけて行ってしまう犬の姿なのです。5歳児のワタクシであってもオーロラと蜃気楼を見紛うはずがない。
そして、妻からの指摘を受けると、夜の景色で緑色のオーロラに半狂乱になっている犬のシーンを見たような気もしてくるのです。ここまでくるともはや、何が自分の記憶で、何が今の自分が生成した想像の産物かよくわからなくなってくるのであります。自分が質の低い生成AIになった気分。言葉のインプットから勝手にイメージが湧いてくる…。これは過去の記憶なのか、今の自分が生み出した想像なのか特定できない…。
いやもう、ただ単に「南極物語」を見返せばいいだけなのですが。私にとって事実は、もはやそれほど大事でないのだな、と思うのであります。私の中に残っていることはそういう記憶のようで、それが勝手に生成されたものかなんなのかよくわからないのだけど自分の体感というか記憶としてはそこにあるのであって。それでいいんだな、と思うのであります。
ちなみに、余談ですが、またひとつ思い出しました。当時見た「キン肉マン」の映画で、「不死身」の敵のボスを最後、鏡の中に封印して、生きたまま深海に沈める、という話があった記憶があり…。なんと残酷なことをするんだ、と思ったおぼろげな記憶があります。(これも本当にそんなシーンがあったのかどうか定かじゃないけど…)
記憶とは、かくも曖昧なもので自分の体験はその曖昧さに積み上がっているんだな。だいたい、過去の記憶なのか今の自分が作り出したものなのかも判別ができない…。これはワタクシがポンコツなのか、老化のはじまりなのか、そもそも人間はそのようにできているのか、それもよくわかりません(たぶんその全部)。ただ、自分がそんな風に曖昧な「記憶」の上に存在していることは今しばらく、意識しておこうと思うのであります。
きっと、年を重ねていくと、そんな風な「意識しておこう」という今の思いも徐々に曖昧になって、自分自身が曖昧ななかにただようようになっていくのかもな、と想像するのです。現在と過去が、事実と想像が、緩やかに混ざり合っていくのです、たぶん。
それはそれで悪くないなと思うのであります。自分も(そしておそらく)他者も、そんな風に不確かであいまいな存在。ふわふわとした記憶の上に漂っている存在だとすると…。人の間違いを正そう、なんて気が起きなくなるし、なんだか優しい気持ちになれる気がします。事実はどうあれ、その人の真実がそこにあればそれはれでいいじゃないか、という気がしてきます。

生成AI DALE-Eが私の記憶を再現してくれたシーン。ちょっとずつ違うけど、まあこんなシーンです。
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